MENU CLOSE
TEL

2021年 3月

移行保育の意味 発達の連続性を踏まえて

2021/03/10

年度が変わると、1つ上の学年へ進級するので、生活の場所が変更になります。4月1日から急に場所を変えてしまうと、慣れない場所での生活で戸惑ってしまうので、徐々に移行します。その時期の保育を「移行保育」と呼びます。年長児が午睡をなくしたり、1つ上のクラスへ遊びへ行ったりという「移行保育」は、1月ごろから徐々に目立つように進んできました。まず遊んでみる、食事をしてみる、そして寝てみるという3つを別々に経験していきます。そしてこの3月が最終的にこの3つを同時にやっていく最終段階になります。その後、4月に担任が変わり、新しい友達が入園してきて、移行は完成です。遊び、食事、睡眠、担任、新しい友達。この5つが時間差で新しくなっていくのです。

もう1つ、大切にしている考え方は、移行保育は一年中やっているというものです。どいうことかというと、それは「発達の連続性」というキーワードから導かれます。

園児は3月が最も年齢が高いのですが、4月になると最も低くなります。年長児が卒園していなくなり、0歳の赤ちゃんが入ってくるからです。こうして4月になると、どのクラスも1年若返ることになります。子どもたちは毎日毎日、少しずつ成長して、1年経つと1つ歳をとります。子どもの発達は、ゆっくりと進んでいきますが、一年でかなり大きく成長したことがわかります。この発達の過程に即した保育を「移行保育」と捉えることができるからです。

一年をかけて、その子の発達に合わせて、徐々に環境は変化し、子ども同士の関係も成長していきます。子どもの自立心も育っていきます。基本的な生活力も大きく伸びます。自分でできることもかなり増えます。たとえば、2歳児クラスは園児が6人に対して先生が1人の割合で配置されています。これを国の最低基準と言います。しかし3歳児クラスになると、一気に20対1という配置になります。それだけ、自分でできることが増えるからです。

したがって、注意しなければならないことがあります。それは、その都度の自立にふさわしいように援助を変えていくことです。いつまでも、幼いままの援助を続けてはいけないのです。大きくなっていくものにふさわしい大きな器を用意していく必要があります。その変化は、一年中実践しなければなりません。年度の切り替えの時だけ、急に変えるような保育では、子どもの実態にあった保育とは言えないものだからです。

移行保育は、3月の中旬から最終局面に入ってきました。

2021年度用 児童票・延長保育申請書をHPからダウンロード可能に

2021/03/10

新年度用の届出書類のご記入ご提出には、お手数をおかけします。重複が多い書類となってしまい、大変申し訳ありません。

(1)遅くなりましたが、新年度用の児童票と延長保育申請書のデジタルファイルをHPからダウンロードできるようにしましたので、パソコン等でご記入いただき、印刷の上、ご提出いただいても構いません。

カテゴリー「各種申請書類」からダウンロードしてください。(ホームページは始年度に向けて改良中です)

(2)なお「緊急時 園児テータカード」(黄色)につきましては、年度ごとの更新は不要です。訂正箇所が生じた場合は、その都度、訂正していただいていおります。また9月の引き取り訓練の時に、再確認していただいています。

◆補足説明

この「緊急時 園児データカード」は、リスクマネジメントの対応策として、準備しなければならない書類の1つです。避難用のリュックサックにファイルして保管しておりまして、いざというときにすぐに持ち出せるようにしているものです。

しかし記載内容に児童票との重複が多くて、記入にご不便をおかけするので、児童票の記載内容の共有化を図った経緯があります。児童票をデジタル化して園のサーバに保存しておく方法です。しかし実際の運用はかえって不便でした。特にカードは持ち出し用として、別のデジタル端末に保存したり、別の紙媒体に印刷し直すという運用が必要となりました。

1年間それを試したことがあるのですが、その後、東日本大震災が起きて、電源喪失やネットに繋がらない事態を想定して、法人として「アナログ」の記録媒体を所持しておくことに変更しました。

この運用も10年以上が経ちます。現在、デジタル化と技術革新で紙媒体がなくなる時代ですから、また見直したいと思います。当面、ご不便をおかけしますが、新しい方法が見つかり次第、改善しますので、ご理解のほどよろしくお願いします。

音楽と遊びの関係

2021/03/09

今日は噂の音楽隊(昨日のちっち・ぐんぐんのブログ)を見てみました。お昼ご飯が終わると、絵本や紙芝居を楽しむ時間があるのですが、お昼寝に入る前に歌を歌います。伴奏は先生のギター。その様子がとっても楽しそうです。子どもが歌を歌う動画が世界で人気ですが(先日も2歳11ヶ月の日本の女の子の「まいごのこねこちゃん」を歌う様子が可愛いと話題になっていました)、歌を歌ったり踊ったりするのは、これまた、とっても人間的な特徴の1つです。こんなに小さい頃から、音楽を楽しむことに、どんな意味があるのか、これまた議論が尽きないテーマになります。

歌を歌ったり、楽器を演奏しようとしたり、自然と体を動かしたりすることは、私たちは何も不思議に思いませんが、よくよく考えると、動物はそんなことはしないし、人間に最も近い霊長類もしませんから(似たようなことは一部しますが)、これも持って生まれたものだということになります。ただし歌や楽器などは経験的なものですが。そこで、音楽について保育との関係で考えられる意味は?と言えば、やはり「音楽」も典型的な「遊び」であるという話になります。

「ホモ・ルーデンス」を著したホイジンガは、その中で、「楽器を操る」という意味の言葉が、「遊ぶ」という言葉と同じ言語がいくつもあると紹介しています。ゲルマン言語やスラブ語、それからフランス語もそうだそうです。この本は遊びの文化的特徴をいくつも取り上げていますが、音楽は他の遊びの因子と同じものがいくつもあって、その1つが「リズム」や「ハーモニー」です。音楽が持っている遊びの要素に思いを回らし出すと、子どもにとっての遊びが心を育てる、心に響く遊びになっていることにも、納得します。

人間は太古の昔から、音楽とともにありました。音楽や踊りは目に見えず、石器や洞窟のように残らないので考古学的な研究が難しいと言われていますが、現代でも伝統的な生活を維持している民族で、音楽のない部族はありません。多くの哲学者や文学者が、この音楽の謎に迫りましたが、こんな小さな子どもたちがいろんな歌に夢中になって「楽団」のように遊んでいるなんて、とても稀なことかもしれませんよ。

お集まりと課題保育について

2021/03/08

保育園で子どもが生活している時間は、どのような時間的な流れで構成されているのか、少し説明します。今日8日は新年度へ向けた「移行保育」の一環として、3〜5歳の幼児クラス「わいらんすい」が、朝のお集まりを2階のダイニングで開きました。これから、この場所で続けます。

その様子を見ていて、「ああ、こんなに成長したのか」と実感したことが、いくつかありました。

(1)先生の方を全員が見ていること。今日は4人のお休みがあったので36人が集まっていたのですが、みんなよく先生の話を聞いていました。一斉保育と呼ばれる場面ですが、先生の話を聞くべき時は聞く、ということができています。

(2)年長のすいすい組の子が、リーダーシップを発揮していること。年少、年中、年長の3学年の子どもたちが、一緒に生活しているのですが、年長らしい育ちが明瞭です。3階から2階へ降りるために階段前での列の作り方を教えたり、グループ毎の移動で「こっちだよ」と伝えたりと、立派なモデルになっていました。

(3)目の目にゾーンがなくても、何をして遊ぶか決定できること。ここで生活してきた遊び方がよくわかっていて、自分がやりたいことを自覚できています。先生が文字で書いたゾーンプレートを説明するだけで、具体的な遊びをイメージできるようになっています。

(4)青、赤、黄、緑、ピンクの5色のグループに別れて座ったのですが、自分がどの色グループかで迷う子はいません。目標の色のポールがなくなっても、それで困る様子もありません。

このようなお集まりができるようになったことは、子どもたちの成長を表しているのですが、今日から早速、お集まりで「課題保育」を子どもたちが「選択」する流れがスタートしました。今日の課題保育は、新しくなった「制作ゾーン」の使い方を学ぶ、というものです。グループごとにそれを学んだのですが、それ以外の時間は、ゾーンの自由選択で過ごしました。課題保育で学んだことが、自由遊びの中で生かされます。課題保育での体験が楽しかったら、それをまた繰り返して遊ぼうとしたり、課題保育で身につけたスキルを他の時間で使ったりします。

このように、先生たちは、子どもたちの様子から課題やテーマを見出し、課題保育の中でふさわしい経験ができるように設定します。子どもたちは課題保育を経ることで、他の時間が充実し、より良い発達を促すことになっていくのです。

人類は共同保育の中で食べ物を分け合って進化した

2021/03/07

さあ、一体いつ頃から食事が「一人の方が気が楽だなあ」と思うような大人が増えてきたのでしょう。「こしょく」という言葉には、いくつか漢字があります。もっとも多く使われるのは「孤食」です。1人で食べる食事のことです。「個食」というのは1人ずつに分けられている配膳のことで、別々に食べることです。「小食」となると、少食のことです。少ししか食べない。「子食」はあまり使われないのですが子どもの食事のこと。そのほかにも「こしょく」はありそうですが、保育園の食事でとても大切にしているのが、共食です。一緒に食べること、家族でも友達でも誰かと一緒に食べた方が美味しいよね、という体験を大切にします。これこそ「孤食」の反対です。

今日の幼児クラス「わいらんすい」のブログで、友達と一緒の食べたい、隣に座りたいという子どもの様子が報告されています。このような気持ちが育てっていることに嬉しくなります。どこでも席が空いていれば、そこで1人で黙々と食べるからいいや、というのではなく、誰かと一緒に食べたいという欲求が自然と湧き上がるということが望ましいと思います。食事を美味しくいただくためには、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに」ということがありますが、それよりも、多少、冷めてしまっても、生温かくなっても、それよりも一緒に食べる方がいい、という心情が育ってほしいのです。

どうして「共食」にこだわるのか、というと、そこには「人間らしさ」の原点があるからです。人間が動物ではなく、人間らしくなっていった条件は、いろいろあります。二足歩行、火の使用、道具の使用、言葉の獲得、色々なことが言われていますが、進化人類学では「食べ物を分け合ったこと」と「共同保育」が人間らしさの決め手になったと考えられているからです。単純なことのようですが、実はヒト以外の霊長類は、食べ物は独り占めしますし、オスは自分の子ども以外は育てようとしません。人だけが家族を超えて村単位の共同体の中で食べ物を分かち合い、他人の子どもも育てあってきたのです。そこには共食とアロペアレンティングがあったのです。動物はできません。

ところが、食べ物を分かち合ったりせずに別々に食べるようになってきたのが、各家族が基本になった現代の都市生活者たちです。さらに戦後広まった3歳児神話が子育てから社会的親を排除してしまいました。そこで何が起きたかというと、人間関係の弾力性を育てる機会が失われていったのです。人間関係の弾力性というのは私の造語ですが「人間関係の希薄化」の反対の意味です。伝統的な社会では、食べ物が豊かではありません。基本的にひもじい思いをしていたのですが、それでも食べ物を分かち合ってきました。多くの兄弟姉妹が食べ物の奪い合いや、分かち合いの中で、喜怒哀楽の感情コントロールの体験が発生していたのです。

人間は生理的早産といって、脳の巨大化と引き換えに産道が通れるくらいの間に未熟児を多く産む進化を遂げました。その代わり父親の子育て参加が必須条件となりました。未熟児多産の戦略ですから、年子が多くなり、上の子は下の子が生まれると親から抱っこされなくなるので、そのころに脳は母親とのスキンシップによる愛情を我慢をしなければならない状態に置かれるのです。それが精神のたくましいレジリエンス(復元力)の獲得に繋がり、濃密な人間関係の中で育っていったのです。

下のグラフは脳の感受性(敏感性)の発達を表したものですが、ほとんどが発達のピークが1歳頃から始まっています。人との関わりの中で育つ「エモーショナル・コントロール」(感情コントロール)はピンク色の曲線ですが、ちょうど1歳半ごろに人間関係の体験があることが望ましいことが読み取れます。

現代は子どもの数は少なく、赤ちゃんの頃の人間関係の葛藤はあまりありません。満3歳から集団での体験が始まるので伝統的社会の人間関係の経験と比べれば、ずいぶんと遅い体験の開始になるのかもしれません。それでも保育園は人類が進化してきた人的環境に近いので、そこで育まれる友達との友情や喧嘩や仲直りや葛藤は、貴重な経験だと思います。そのワンシーンが食事の時にもみられるのです。

乳幼児はアクティブラーナーである

2021/03/06

人は一生、何かを感じ、考え、学び続けています。赤ちゃんから大人まで例外はありません。ただし学んでそれを身につけるとき、それがよく身につくためには、それを実際にやってみることが一番です。小学校以降の学習には、国が定めた学習指導要領があって、そこに学ぶ内容が教科と特別活動ごとに系統的に整理されています。文字を読めるようになったり書けるようになったり、九九を言えるようになったり、足し算や引き算ができるようになったり、いろいろな基礎・基本の学習が待っています。

その時、授業で教えてもらったことがよく身につくようにするには、知識だったらその知識を他の人に説明できるまで理解すること、技能だったら使ってみること、どうしてだろうという疑問だったら誰かと一緒に話し合ったり考えをわかり合ったりするといいのです。このような学習の方法を、「対話的で深い学び」と言われているのですが、いわゆるアクティブラーニングのことです。

年長のすいすい組10人は、あと1か月すると、小学校の学習で今いったような学習が始まります。保育園で行ってきた学びと何が違うのかというと、実はこの「対話的で深い学び」こそ、保育園で行っている遊びの中の学びそのものなのです。しかも、それは赤ちゃんからやっているのです。例を挙げてみましょう。

つい先日、すいすいタイムの様子がわらすのブログで紹介されています。みかんの缶詰ができるまでについて、子どもが「どうやって大きさの違いを分けているんだろう」と考えてみたり、きっとこうじゃないか、ああじゃないかと、語り合ったに違いありません。これは小学校でのグループ討議のようなものです。そして「そうか!」とわかったことを、子どもたちは誰かに話したがります。おうちの人に「ねえねえ、あのね、みかんの缶詰ってね」と話してくれたのではないでしょうか。学んだことを言葉で人に教えることは、人類が延々と営んできた最も得意な知識共有の手段でした。

学んだことを人に教えることは、知識の定着度が最も高いと言われています。その次に高いものが「自分でやる」というものです。これも赤ちゃんの頃から、乳幼児の独壇場です。なんでも自分でやりたがります。先生がちょっとでも面白そうなことをやった見せたりすると、僕もやる!と大騒ぎになります。私のすいすいタイムでも「わくわく実験」でもそうです。つい先日も、こんな光景をみました。

玄関先で自分の靴が靴箱から出ないので、お母さんが出してあげると、その子は<自分でやりたかったのに〜>と抗議の声を上げたのです。お母さんは、すぐにその気持ちがわかって「ああ、自分でやりたかったのね、ごめんごめん」と靴を戻してあげていました。子どものことをよくご覧になっているお母さんの、その応答的な対応は、まさしく子どもの自発性を損なわないで見守っていらっしゃいました。子どものことだからと、軽くみてはならないのであって、靴箱から自分の靴を自分で出して自分ではく、と言う意欲と態度は、学校での学習場面に置き換えるなら、自発的学習そのものです。

ヒトの脳は、何万年もの間、なすことを通じて学んできました。これはジョン・デューイが提唱した教育方法に極めて近いものなのです。彼の代表作『民主主義と教育』で「教育は、経験の意味を増加させ、引き続く経験の進路を方向づける能力を高めるような形での、経験の再構成または再組織化なのである」と述べていますが、この箇所は保育士試験に引用されています。

グループ討議、自分でやってみる、人に教える。この3つは学びの定着度が高い3方法だと言われています。私も聞いたり読んだり考えたりしたことを、こうして自分の書き言葉に置き換えるとき、知識の再構成や再文脈化が起きています。

イベルメクチンを承認したらいいのに

2021/03/05

3月7日の解除予定だった首都圏一都三県の緊急事態宣言が、3月21日(日)までの2週間再延期が正式に決定した今日3月5日(金)、3月21日(日)に予定している「卒園式」の実施方法について再検討しました。その結果は週明けにお伝えします。それにしても、2週間延期したところで、今日までに言われている政府の政策では、感染者数がこれ以上、減少するようには思えませんでした。こんなときは、私たちは時々「そもそも」に立ち返ってみることで、冷静な判断力を取り戻すことができるかもしれません。

私たちは何かの課題や困難に出会っても、それを乗り越えたり解決できそうだという「できるという見通し」があると安心する傾向にあります。100%やってくるにも関わらず、いつやってくるのかわからず、しかもその後がどうなるのか不明瞭な究極の課題や困難が「死」だとすると、それに至る可能性がある疾病が、人々の不安を掻き立てるのは間違いないところです。

実際のところ、日本人の全ての「死亡原因のトップ3」は、事故などではなく「病気」であって、一位ががん(悪性新生物)28%、2位が心疾患16%、3位が肺炎10%という割合です。それぞれの治療法が進んで、不治の病ではなくなってきました。特に早期に発見できれば治る割合も高くなっています。これらに対する「不安」が軽減してきているとしたら、その最も大きな原因は、やはり「治療」が向上したからではないのでしょうか。他の病気についても、そうだろうと思います。色々な病気に対して人類は「医療の質」を高めることで克服してきました。

「そもそも」医療というのは、3つの要素かると言われています。私が看護師の養成校で「教育学」の講師をしていたとき医療は「予防、診断、治療」からなるとテキストに書かれていました。私たちは病気に対しては、この3つのうち、まず「治療」が進歩することで「治るという見通し」から安心します。それに引き換え、いくら「予防」しても罹患することはあるし、症状が出ても、それがどんな病気なのかという「診断」ができないと、適切な治療に結びつきません。

新型コロナの場合は、ワクチンがない状態で「予防」が三密回避しかなくて対応が難しいし、変異ウイルスを含めて病原体へPCR検査や抗原検査などの「診断」もなかなか進まないし、そして治療薬がないなど「治療」が確立していないこと、この3つとも「見通し」がないから社会不安になっています。医療の3本柱がなく疫学的対応という1本柱で建物を建てようとしているように見えます。

このように「そもそも」で考えると、新型コロナウイルスの医療としての決め手の1つは、やはり治療薬なのでしょう。治療薬がないので、これまで、どうしても予防や診断の話になっててきました。緊急事態宣言で人と人の距離を取ろうという究極の荒っぽい予防策です。治療が難しいので、三密回避だとかワクチン接種だとか予防策の話が多くなり、莫大な費用をかける割に埒が明かない状態です。ついでに言うと、診断方法もこれまで政府ー保健所ー感染研ラインのPCR検査ばかりに偏ってきた気がします。

ところが、ここにきて海外では治療薬「イベルメクチン」が積極的に使われていると言う報道が増えてきました。アメリカでは1日に3万回も処方されています。東京医師会の尾崎治夫会長も厚生省へ早急に特例承認するよう要望しているようです。イベルメクチンは大村智(北里大学特別名誉教授)が北里研のキャンパスで1975年に発見した菌が元になっています。大村さんは、寄生虫感染症に効果がある薬の開発に結びつき(1981年アメリカMSD社と動物用の治療薬を共同開発し、1987年にはヒト用の治療薬をアフリカで無償提供を開始しました)、アフリカなどで35億人もの命を救ってきた実績が評価されて2015年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。今でも毎年3億人が使用しています。この薬が新型コロナにも効くことがわかり、世界中で使われ始めているそうです。

 

子どもと一緒に物語の世界に入り込む

2021/03/04

子どもと一緒にいて幸せを感じるときは、どんなときですか? 何か素敵なものを分かち合っていると実感できる時ではありませんか。例えば「いいなあ、こういうの」と思っていることを「ね、いいよね」と頷き合うような時。あるいは夕食の一家団欒が、共感し合ううれしさで、笑顔や笑いがこぼれ出ているような時。こんな時間は多いに越したことはありません。何をするわけでもなく、「これしなくっちゃ」とか「ああでなきゃだめだ」という意識もスッコーンと抜けていて、脅迫めいた時間から解放されている。そんな「こどもの時間」をたくさん用意してあげたいと思います。

今日4日は、久しぶりに3階で絵本を読んであげる時間がありました。取り上げたのは、「たまごやきのたまこさん」と「どろんここぶた」そして「大どろぼうホッツェンプロッツ」の続きです。毛色の違う3種類の絵本は、その面白さの種類が違うのですが、子どもたちは、変な言い方ですが、それぞれの面白さを「しっかり」キャッチできる感性をもっています。これは心に余裕がないと、楽しめないんじゃないかと思います。それぞれの「おかしみ」を、クスクス笑ったり、「え〜っ」と、なんとも言えない感嘆の声をあげたり、それぞれの登場人物の気持ちを共感しているのが、よくわかります。

絵本を楽しむというのは、1人でその世界に入り込むのもいいのですが、こうやって1つの絵本をみんなで集まって読んでもらうというのは、案外、保育園のようなゆったりとした時間の中でしか、味わえない貴重なものかもしれません。小学校には、そんなまったりとした時間はないですし、家庭にはお友達がいません。

しかも、私が好きな絵本を読んでいるので、私がお話の世界の案内役とはいえ、完全にエコ贔屓している世界です。「ほら、いいでしょう」と、個人的な思い入れ100%の読み方です。私の心の動き、感情の起伏、どういう気持ちでいるかということが、子どもたちに伝わっているはずです。

大人が絵本を読んであげるのは、やってあげる保育であり見守る保育じゃない、と勘違いしないで欲しいのです。絵本の世界は、私という環境を通して子どもの体験になっているのです。私が媒体するものが絵本の世界です。子どもが1人で自分で絵本を読んで楽しむこととの違いは、私の心の動が環境となって、それを通じて魅惑の世界へ誘っていることにあります。佐伯胖さんの「ドーナツ理論」とほぼ同じです。私が文化的実践を通して、子どもたちをその世界へ誘う橋渡し役をしているという捉え方です。

 

私は私、私は私たち(「自分らしく」の意味)

2021/03/03

何かの集団の一員であるという所属の欲求を私たちはもっています。同じものに連なっているという生の連続性やルーツを求める傾向をもっています。私は何者なのか?というアイデンティティは、自分が自分であるための証明として、何かの価値や連続するものに同化しようとします。子どもの模倣衝動もこのラインにあるような気がします。

しかし、一方で、私は私であるというときは、私は違う!と言っているのです。私はあなたじゃない。私は私が決める、決定権は私にある。それをどう考えて、どう行動するかは私が選択して決めたい。私にはそういう意思決定の自由がある。このように考えるのも、また私たちの中にあります。

自分らしく自由でいたい。しかし同じ共同体の一員でもありたい。この私は私でありながら、私は私たちでもあるということは、至るところにあります。結婚して、それまでの自分の姓でいたいのか、どちらかの同じ姓にするのかを決めるのは、個人の自由な選択になります。私が私でありながら、私たちでもあるあり方を姓名(氏名)で規定するとことに、いかにアイデンティティーが、その社会制度に縛られているかがわかります。その国の個人と国家の関係です。

同じ発想で、ジェンダーのことを考えてみましょう。自分の脳が生物学的に男性だったり女性だったりLGBTだったりすることは、生物学的な要因もあって、自分の意思、選択意識だけでは解決しません。本人さえ戸惑ってしまうこともあります。人と人との関係の中で、初めて自分のありように気づくこともあります。僕は男だと思っていたけど、違っていたことに後でわかるのです。これらの問題を考えるときに、立ち返るべき視点は「本人にとって」はどうなのか、ということが最優先されるといいのです。

そこで子どもと接するときに気をつけたいのは、ジェンダーの特性を一般化しないということです。普通は〜だとか、〜は◯◯が多い、とか量的に多いことをもって論拠としないということです。一人一人違うんだという、徹底した「自分らしく」の尊重から始めたい。したがって、当法人の保育は年齢別、性別、しょうがいで分けないことにしたのです。

心動かされる体験について

2021/03/02

見立て遊びは好きなことに限らない?そうか、痛いことや怖かったことも再現するのか、面白い!ーーー今日の1歳児ぐんぐん組のブログのことです。満2歳を過ぎている子たちが、お医者さんと患者さんという役割をもった「お医者さんごっこ」を楽しんでいる様子が報告されています。しかも注射しているところなのです。いまテレビをつけると「ワクチン接種の場面」がよく写されるので、その影響かもしれませんが、多分、自分が予防接種を受けた時の体験だと思います。痛くてきっと泣いたりしたでしょうに、それでもごっこ遊びになるんですね。そういえば、お化け屋敷なんて、怖くて悲鳴をあげたりしたのに、子どもはお化け屋敷ごっこが大好きだといことを思い出せば、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

歯医者さんも、痛い思いをしたんじゃないかな、と思う方が多いと思いますが、実はうちの園医の山本歯科さんは、子どもたちに人気なのです。6月と10月ごろに年に2回の歯科健診をお願いしていますが、その時の様子を見ていると、もちろん子どもにもよると思いますが、あまり怖がりません。優しい先生なので、その雰囲気が子どもにはわかるようで、嫌がるどころか、むしろ、「あ〜ん」と自分から口を開けて診てもらう姿があります。

見立て遊びに取り入れられる場面は、子どもにとって、きっと印象深いシーンなのでしょう。昨日の0歳児ちっち組のブログでは、柳森神社での「お参り」が取り上げられていました。満1歳の子が、手を合わせてお参りする「ふり遊び」なんて、私も初めて見ました。心動かされる体験、という言い方に私たち保育者は慣れ親しんでいるのですが、深く考えると、何が心を動かしているの不思議です。「ああ、そこか!」と子どもは大人に教えてくれる印象的なシーン。数ある大人の振る舞いの中から、それを切り取ってくるセンサーは、誰に教えられたわけでもない、先天的な認知の枠組みなのでしょう。ここに人間の認知の秘密があるようです。

今日は久しぶりに、ダイニングで子どもたちと一緒に食事をしました。新型コロナウイルスの感染者数が多い時期は、事務室で昼食を摂るようにしていたのですが、3月になって、すいすい組の子たちとの残された時間を大切にしたいという思いが募ってきました。すると、すいすいの子は、昨年秋頃から読んであげてきた絵本の名前や、物語の印象深いシーンを、いくつもいくつも語り出すのです。それには驚きました、と同時にとても嬉しくなりました。このように話し出すことも、印象的なことの再現に違いないわけですが、私の方まで心が熱くなってしまいます。心を通わせるという意味は、大事なことを分かち合うこと、再確認すること、共有することなんだなあ、としみじみ思ったものです。そしてこう思うのです。「よーし、また楽しいお話をいっぱい読んであげるからね」。

top