ココア蒸しパン
牛乳
2021/03/15
ココア蒸しパン
牛乳
2021/03/14
今日3月14日(日)、気象庁は東京の桜の開花を宣言しました。靖国神社のソメイヨシノの票木林に5つ以上の花びらが咲いたら「開花」です。ニュースによると昨年と同じ日で、観測以来最も早い開花だそうです。春です。
2021/03/13
◆気持ちを言葉でなぞってあげられるように
最近の子どもたちの成長ぶりが、いろいろな場面で感じられて、また子どもに教えてもらうことも多くて、「頼もしいなあ」とか「すごいなあ」とか「こんなことまで!」とか、いろいろです。そんな成長に気づいている先生たちは、子どものちょっとした姿から見えてくる育ちや心の動きをいつも語り合っています。その一部がブログで紹介されているわけですが、それを読んでいると、子ども同士の関わりの中で育ちあう瞬間を目撃できる仕事が保育士なのかもしれないと思えてきます。型入れ遊びで「もういっかい」という言葉で感じ合っている、相手の気持ちへの想像力とか、身体測定を再現して、ペンギンの身長を図っているレゴについて「ペンギンさんが“おおきくなったかな”してるとこ」と表現できてしまう力とか、ほんとに面白いし愉快です。そして私たちは、子どもの姿から、その心の動きを「言葉でなぞってあげられるように」と思えるような子どもへの迫りかた(よく見守ること)への必要感を覚えるのでしょう。この感覚が大人に増えるなら、子どもたちはもっと幸せになることでしょう。
◆緊急事態宣言の解除の日が卒園式
姉妹園で卒園式がありました。明日もあります。来週21日はいよいよ千代田の番になります。昨日12日にすいすい組の保護者の方へ「卒園式のお知らせ」を配りました。今年は何かと節目の日に行事が重なります。21日は再延長されている緊急事態宣言の最終日にあたります。政府首脳は「よっぽどのことがない限り解除」の方針だそうですが、やはりリバウンドと変異種の広がりが気になります。「なぞりたい気持ちの相手」は、コロナで毎日なくなっていく方とその家族の方々です。もちろん震災や原発事故もそうです。そのためには、事実をよく知る必要があるのですが、遠いです。
◆俯仰天地に愧じず
(以下は妄想)それにしても毎日、これだけの死者の数が報道されているのに、もし700円ぐらいのイベルメクチンを飲んでいたら、この数がもっと減っていたのだろうか。海外の実態をルポするジャーナリストもいないのだろうか。そのためにクラウドファンディングでもなんでも、皆保険制度の外側に「薬の自主ルートをつくる会」でも立ち上げて、早く治療薬を届けるルートを作るような出光佐三は現れないのだろうか。北里大学の研究グループが厚労省の認可を得るために必要な費用が4億とかで足りないのなら、300億とか使ってでも第三層の治験データを集められないのかしらん。変異株蔓延の前に承認できないのでしょうか。
◆「薬の神じゃない」のチョン・ヨン(程勇)はいないだろうか
(これは願望)昨年の中国映画に「薬の神じゃない」という、格安のジェネリック医薬品をインドから輸入する話を思い出しました。密輸なので違法になるけれども白血病の患者を救う話だった。似たような英雄談を日本人は好むはずなのに。そもそも儲からないから、どの製薬会社も治験をやろうとしないのなら、ここでこそ「医療原則」に立ち返って、市場価値原理から使用価値原理への転換を「福祉」の観点から乗り越えてもらいたい。有事ではなく、福祉の観点から市場原理に任せないでほしい。死んでいく国民を前にして、効く薬があるかもしれないのに、使えないという仕組みは「どうにかしているとしか思えない」という感覚を、学校の道徳ではぜひ教えてもらいたいものです。
2021/03/13
先日、みつほちゃんが、ブロックで面白いものを作っていました。
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何か分かるでしょうか?
みつほちゃん曰く、「ペンギンさんが”おおきくなったかな”してるの」だそうです。
ぐんぐんさんの言う”おおきくなったかな”とは、身体測定のことです。
この前行った身体測定を思い出したのか、ペンギンが、身長を測っているようです。
身長計の形が、なんだかとてもリアル…!
実は、身体測定当日はみつほちゃん、とっても嫌がっていたのですが、こんな形で遊びで再現されるなんて、面白いですね。
あんなに涙して頑張っていたみつほちゃんが、こんどはペンギンの身長を測ってあげる姿は、なんだか微笑ましいです。
気分がのらなかっただけで、ほんとうは身体測定の趣旨もよく分かっているんだなぁ…と、頼もしさも感じます。
そんなみつほちゃんの姿を見ていたゆずちゃんも、インスピレーションを受けたようで、同じような身長計を作って想像を膨らませていました。
ゆずちゃんが身長を測っているのは、「れおなちゃん」だそうです。
2021/03/12
今日11日は、卒園する子どもたちに楽しい思い出になってもたいたくて、バス遠足先としては2大人気スポットだった「しながわ水族館」へ午前中、「木場公園」へ午後出かけるという、ちょっと贅沢な「お別れ遠足」の日となりました。「午後から雨かも」という予報だった天気も味方してくれました。ただ、緊急事態宣言の再延長のため、都立公園である木場公園での「飲食」が禁止されたために、お弁当は保育園まで戻ってきて屋上で食べました。これもまた、楽しい思い出になりました。
◆しながわ水族館
午前中の「しながわ水族館」は、建物の周囲の改修工事が終わって、綺麗に完成していました。9時30分に出発して高速道路を使って25分で到着すると、水族館の玄関まで歩く途中で「記念写真」を撮り、すいすい10人と先生3人で、館内を順路に沿って見てまわりました。
「これまでとなんか違うなあ、これも成長したからかな?」と感じたのは、どの子もパンフレットを欲しがるので、各自に渡すと、各自がそれを手にしながら、「今はだから次はここ」と、館内地図を使いこなしながら、率先して移動しようとします。どの場所の複数回きているので、イルカの「ミントいるかな?」などと話しています。
この水族館、何度来ても、また新しい発見があるので、きっと子どもにとってもそうなのでしょう。いろいろな川や海にすむ生き物は実に多様で、魚やえびやたこやクラゲなどが、大小の水槽で暮らしています。子どもたちは次から次へと、わくわくして珍しいものとの出会いに「あ!ほら、こっちきて!」と、生き生きしています。
イルカ、アザラシ、ペンギンが3大人気です。それぞれ別の「館」になっていて、子どもたちも、比較的長い時間、そこにとどまっていました。あいにく、餌やりやジャンプなどのショーのプログラムはありませんでしたが、オットセイがボール芸の練習をしていたり、イルカの親子がすく目の前まで寄ってきたりと、迫力満点でした。
文字が読める子どもが多いので、掲示物を見て名前をみて「デンキウナギだ、どうやったら電気出すの?」と知りたくなったり、「ねえ、見て、クラカケアザラシだって!」と私と同じ名前のアザラシを発見する子もいました。こういうところへ来ると、どの子も知りたがり屋さんや、教えたがり屋さんになるみたいで、幼児の知識欲に感心します。
予定よりも早く周り終わったので、「お腹減った、早くお弁当食べたい」という要望に合わせて、11時20分には水族館を後にしてお昼前には園に戻りました。おうちの人に作ってもらったお弁当は、どの子もとても楽しみにしていて、自分の家から持ってきたシートを敷いて屋上で揃って食べました。お弁当におうちの方との愛情での繋がりを強く感じました。
◆木場公園
午後は1時に保育園を出て1時半には公園につきました。早咲きの「大寒桜」が満開でした。白梅、紅梅も綺麗な花をつけていました。原っぱが広がる「ふれあい広場」で、思い思いの遊びをして過ごしました。かけっこ、縄跳び、サッカー、木登り、鬼ごっこ、宝探し、転がしドッチボール・・・かなりの運動量でも、午睡もしないで1日を元気に過ごせるようになっていることがよくわかりました。
都立公園はマスク着用が条件だったので、子どももそうしましたが、運動中はマスクなしで遊びました。売店では食べ物も普通に売っており、食事をしている家族グループもあったりと、電話で事前に確認したルールは、公園の中に入れば実際はそれほど厳しくありません。これの方が実態にあっていると感じました。
「また根っこ鬼ごっこしよう」と言われました。「そうだね、また来ようね」と行って公園を3時15分に後にしました。でも木場公園にすいすいと来るのは、今日が最後です。「今日で最後だよ」とは言えませんでした。
この2年間の間に、木場公園は蝶々を追いかけ、大型遊具を楽しみ、かくれんぼのような保育参観の舞台となり、秋の木の実を集めた思い出の場所です。卒園する子どもたちにとっても、広さ、匂い、笑い、身体感覚として体に染み込んでいることでしょう。
この子らの幼少期を生きた思い出の場所の1つとして、ここを訪れるたびに、楽しかったことを思い出してくれることを願っています。
2021/03/12
あやかちゃんとゆいとくんが、タグ落としで一緒に遊んでいました。
ふたりで仲良くタグを落としていましたが、全部入れ終わると、箱の取り合いっこに。
どうなるかな、と見ていると…
あやかちゃんはもう一度中身を出して、タグ落としをやりたい様子。でも、ゆいとくんも箱が欲しいようです。
少しの間、箱を引っ張りあっていたふたりですが、ふと、あやかちゃんが「もっかいやろっか、もっかい」と言うと・・・
ゆいとくんは「うん」と素直に箱をあやかちゃんへ。
よーく見ると、ゆいとくんも「うん」と言いながら、ちゃんと指で「☝️(もう一回)」と人差し指を立てて、あやかちゃんの言葉に応えているようです。
その後、あやかちゃんがふたをあけて、もう一度中身を出してくれました。ゆいとくん、あやかちゃんの姿を見つめながら、ちゃんと待っていますね。
こんなふうに、大人の力を借りなくても、友だち同士でやりとりできる姿が出てきたことに、すごいなぁ〜と感心してしまいました。表情、仕草などのコミュニケーションに加えて、少しずつ、言葉でのコミュニケーションもとれるようになっていきます。
言葉でのやりとりができるようになってくると、自分のやりたいことが伝えられたり、相手のやりたいことが理解できたり、気持ちを伝える方法がぐっと豊かになります。
ちっちぐんぐんの頃は、それがまだ難しいこともあるので、友だちに対して手が出てしまうことも多い時期です。でも、子どもたちは、こうして、(言葉で伝えるのが難しくても)言葉の意味をよく理解しているので、必要なときには私たちが、納得できるように丁寧に伝えていってあげることも大切なのだと考えています。お友だちと少しずつ言葉でコミュニケーションをとっていくための、お手伝いです。
そして、そのためには、その子がどんな気持ちでいるのか、何がしたいのか、ひとりひとりの気持ちを言葉にしてなぞってあげられるよう、子どもの姿をよく見ておくことが必要なのだと思います。
おまけの写真は、部屋で思いきりくつろぐあやかちゃん。ポーズがかわいくて笑ってしまいました♪
2021/03/12
午後の部の木場公園へ出発進行!!
愛情弁当でエネルギー充電しました!!!
2021/03/12
マスカットゼリー 豆乳プリン
ベジタブルせんべい
2021/03/12
水族館が終わって、特別おやつタイム!!
遠足を満喫中です!
2021/03/11
2歳児クラスのにこにこ組が、3階で遊び始めました。この時期の「移行保育」で大切にしていることがあります。それは決まりを守ることを子どもなりに「納得する」ことです。私たちの生活には、いろいろな決まりがあります。そうした決まりに子どもが気づくとき、「あ、それは守らなくちゃ」と子どもなりに納得するような気づき方ができると理想的です。納得して決まりやルールを守ろうと思うようになるには、どうするといいのでしょうか。
決まりやルールには、「物」に関すること「事」に関すること、そして「人」に関するものがあります。
物に関するルールや決まりには、「ものを大切にする」「ものを壊さない」などの決まりがあります。それができるようになるには、その物への愛着から「なくなるとイヤだな」「壊れると可哀想」という気持ちから「大事にする」につながるといいでしょう。おもちゃや人形、絵本などを大事に扱うようになってほしいと大人は思います。
そのためには、まず「ものは壊れる」という事実を子どもが知ることが必要なのです。実は子どもはそこがわからないことが多いのです。大事にしよう、とか大切に扱おう、と伝えても「大事に」や「大切に」という言葉は抽象的すぎて、子どもにはわかりません。子どもは興味があると、それを触りますが、結構、手荒に扱います。本人はそれが「乱暴」であるとは思っていません。大好きはぬいぐるみを振りまわし、ちぎれてしまうこともあります。
ですから、壊れては困るようなものを子どもに与えておいて、壊されてしまって子どもを怒るようなことはしないようにしましょう。子どもは壊してしまうものだとまず思っておきましょう。
それでもある時期から、大事にする、大切にするという意味がわかるようになっていくのですが、その秘訣は子どもに「物の立場になってもらう」のです。ものへのケアです。子どもが物へ心を寄せるようなことができる中から、大切にしようという気持ちが育っていくでしょう。
もう1つの「事」への決まりやルールですが、これの秘訣は、それを守ることで「いいことがある」という期待が持てるといいでしょう。こんな話を満3歳ぐらいの子どもたちは理解できます。
「みんなは乗り物が好きだよね。自動車に乗るとね、いろんなところへ自由にいくことができるんだよ。いいでしょう。でもね、1つ守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う? それはね、信号を守るってことなんだ。信号を守らないと乗り物がぶつかって怪我をしてしまうんだ。みんな怪我するのはイヤでしょう。だから、車で自由にいろんなところにいくことができるように、信号を守るんだよ」
決まりを守ると、いいことがある。そういう体験をこの時期にはたくさんできるといいでしょう。決まりを守れば、手を洗って気持ち良くなる、食事の配膳をしてもらえる、外へ遊びへいくことができる、いろいろなルールは「楽しいこと」「嬉しいこと」につながっているんだ、と感じることです。
そして「人」への決まりは、相手が喜ぶということです。ルールを守ると相手が嬉しい感じ、それが自分も嬉しいと感じることができるといいのです。相手が困ることは自分もイヤだなという気持ちを育てることです。自分が良ければ他人のことはどうでもいいという心で止まってしまうと、決まりは生きたものになりません。
たとえば心がこもらない言葉は、ルールから心を奪ってしまいます。「ごめんね」を形だけで「言わせる」と、それを言えさえすれば、許してもらえる「魔法の言葉」になってしまいます。何か相手に悪いことをしたとします。条件反射的に「ごめん」と言います。それでは言われた方は、「いいよ」と許してあげたくなりません。するとまた「ごめんね」と言います。何度もごめんを繰り返すかもしれません。でも心のこもっていない「ごめん」は、「いいよ」になりにくいのです。
口ですぐに「ごめん」と言えることよりも「ああ、悪かったなあ」と思える心が先です。それがあれば、謝られた方も「いいよ」と許せるようになるのです。ここに心を通わせるという大切なものがあります。それがない社会的なルールは形だけのものになってしまうのです。
社会的な規範が成り立つのは、このように物、事、人との関係の中に、ケアリングと呼ばれる「心を配ること」ができる心の育ちが必要なのです。それがない社会の決まりは、形骸化したものでしかないでしょう。