MENU CLOSE
TEL

2021年 3月

お集まりと課題保育について

2021/03/08

保育園で子どもが生活している時間は、どのような時間的な流れで構成されているのか、少し説明します。今日8日は新年度へ向けた「移行保育」の一環として、3〜5歳の幼児クラス「わいらんすい」が、朝のお集まりを2階のダイニングで開きました。これから、この場所で続けます。

その様子を見ていて、「ああ、こんなに成長したのか」と実感したことが、いくつかありました。

(1)先生の方を全員が見ていること。今日は4人のお休みがあったので36人が集まっていたのですが、みんなよく先生の話を聞いていました。一斉保育と呼ばれる場面ですが、先生の話を聞くべき時は聞く、ということができています。

(2)年長のすいすい組の子が、リーダーシップを発揮していること。年少、年中、年長の3学年の子どもたちが、一緒に生活しているのですが、年長らしい育ちが明瞭です。3階から2階へ降りるために階段前での列の作り方を教えたり、グループ毎の移動で「こっちだよ」と伝えたりと、立派なモデルになっていました。

(3)目の目にゾーンがなくても、何をして遊ぶか決定できること。ここで生活してきた遊び方がよくわかっていて、自分がやりたいことを自覚できています。先生が文字で書いたゾーンプレートを説明するだけで、具体的な遊びをイメージできるようになっています。

(4)青、赤、黄、緑、ピンクの5色のグループに別れて座ったのですが、自分がどの色グループかで迷う子はいません。目標の色のポールがなくなっても、それで困る様子もありません。

このようなお集まりができるようになったことは、子どもたちの成長を表しているのですが、今日から早速、お集まりで「課題保育」を子どもたちが「選択」する流れがスタートしました。今日の課題保育は、新しくなった「制作ゾーン」の使い方を学ぶ、というものです。グループごとにそれを学んだのですが、それ以外の時間は、ゾーンの自由選択で過ごしました。課題保育で学んだことが、自由遊びの中で生かされます。課題保育での体験が楽しかったら、それをまた繰り返して遊ぼうとしたり、課題保育で身につけたスキルを他の時間で使ったりします。

このように、先生たちは、子どもたちの様子から課題やテーマを見出し、課題保育の中でふさわしい経験ができるように設定します。子どもたちは課題保育を経ることで、他の時間が充実し、より良い発達を促すことになっていくのです。

音楽隊

2021/03/08

坪井先生のギターが始まると…

 

手拍子で歌ったり

マラカスを持ってきて鳴らしてみたり

みんな思い思いに音楽を楽しんでいます♪

ちっちのりょうちゃんも、ぐんぐんさんの姿を見るなり同じマラカスを持ってきて、一緒に演奏です。


ちゃんと、横一列になるように並びにいくところがかわいいです^^

なんだか「おたのしみかい」のステージを見ているようでした。

ちっちのゆいとくんは、カップをひっくり返して太鼓がわりです!

 

こうやって子どもたちから溢れ出てくる表現の姿は、なんだかとても魅力的です。

 

ぐんぐんさんからは、「むし!(虫のこえ)」の歌のリクエスト。

みんな、その時々のお気に入りの歌をリクエストするので、秋に「たなばた」を歌ったり、真冬に「虫のこえ」を歌ったり… ちょこっと季節外れなのはさておき、だいすきな歌を楽しむ子どもたちは、嬉しそうです。

この1年で、季節のうたも沢山覚えましたね♪

生活の変化

2021/03/08

保育園では、生活の中に「朝の会」「帰りの会」の時間を設けています。今までは3階クラスで行っていましたが、「机やいすの移動の時間」「空間の確保」「にこにこ組との共有」など子どもたちがより良く会に参加しやすい環境を検討した結果、今日から2階にランチルームでグループ毎に座って行う事にしました。

新しい生活の流れを子ども達と作っていきたいと思います。

人類は共同保育の中で食べ物を分け合って進化した

2021/03/07

さあ、一体いつ頃から食事が「一人の方が気が楽だなあ」と思うような大人が増えてきたのでしょう。「こしょく」という言葉には、いくつか漢字があります。もっとも多く使われるのは「孤食」です。1人で食べる食事のことです。「個食」というのは1人ずつに分けられている配膳のことで、別々に食べることです。「小食」となると、少食のことです。少ししか食べない。「子食」はあまり使われないのですが子どもの食事のこと。そのほかにも「こしょく」はありそうですが、保育園の食事でとても大切にしているのが、共食です。一緒に食べること、家族でも友達でも誰かと一緒に食べた方が美味しいよね、という体験を大切にします。これこそ「孤食」の反対です。

今日の幼児クラス「わいらんすい」のブログで、友達と一緒の食べたい、隣に座りたいという子どもの様子が報告されています。このような気持ちが育てっていることに嬉しくなります。どこでも席が空いていれば、そこで1人で黙々と食べるからいいや、というのではなく、誰かと一緒に食べたいという欲求が自然と湧き上がるということが望ましいと思います。食事を美味しくいただくためには、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに」ということがありますが、それよりも、多少、冷めてしまっても、生温かくなっても、それよりも一緒に食べる方がいい、という心情が育ってほしいのです。

どうして「共食」にこだわるのか、というと、そこには「人間らしさ」の原点があるからです。人間が動物ではなく、人間らしくなっていった条件は、いろいろあります。二足歩行、火の使用、道具の使用、言葉の獲得、色々なことが言われていますが、進化人類学では「食べ物を分け合ったこと」と「共同保育」が人間らしさの決め手になったと考えられているからです。単純なことのようですが、実はヒト以外の霊長類は、食べ物は独り占めしますし、オスは自分の子ども以外は育てようとしません。人だけが家族を超えて村単位の共同体の中で食べ物を分かち合い、他人の子どもも育てあってきたのです。そこには共食とアロペアレンティングがあったのです。動物はできません。

ところが、食べ物を分かち合ったりせずに別々に食べるようになってきたのが、各家族が基本になった現代の都市生活者たちです。さらに戦後広まった3歳児神話が子育てから社会的親を排除してしまいました。そこで何が起きたかというと、人間関係の弾力性を育てる機会が失われていったのです。人間関係の弾力性というのは私の造語ですが「人間関係の希薄化」の反対の意味です。伝統的な社会では、食べ物が豊かではありません。基本的にひもじい思いをしていたのですが、それでも食べ物を分かち合ってきました。多くの兄弟姉妹が食べ物の奪い合いや、分かち合いの中で、喜怒哀楽の感情コントロールの体験が発生していたのです。

人間は生理的早産といって、脳の巨大化と引き換えに産道が通れるくらいの間に未熟児を多く産む進化を遂げました。その代わり父親の子育て参加が必須条件となりました。未熟児多産の戦略ですから、年子が多くなり、上の子は下の子が生まれると親から抱っこされなくなるので、そのころに脳は母親とのスキンシップによる愛情を我慢をしなければならない状態に置かれるのです。それが精神のたくましいレジリエンス(復元力)の獲得に繋がり、濃密な人間関係の中で育っていったのです。

下のグラフは脳の感受性(敏感性)の発達を表したものですが、ほとんどが発達のピークが1歳頃から始まっています。人との関わりの中で育つ「エモーショナル・コントロール」(感情コントロール)はピンク色の曲線ですが、ちょうど1歳半ごろに人間関係の体験があることが望ましいことが読み取れます。

現代は子どもの数は少なく、赤ちゃんの頃の人間関係の葛藤はあまりありません。満3歳から集団での体験が始まるので伝統的社会の人間関係の経験と比べれば、ずいぶんと遅い体験の開始になるのかもしれません。それでも保育園は人類が進化してきた人的環境に近いので、そこで育まれる友達との友情や喧嘩や仲直りや葛藤は、貴重な経験だと思います。そのワンシーンが食事の時にもみられるのです。

この子と座りたい!

2021/03/07

保育園の食事では席を自由にして食べています。毎日好きな席で好きな友達や好きな場所で食事を楽しんでいます。
この席に座ろうと早く2階に降りてきたり、友達と約束をして並んだりとそれぞれが食事の前から食事の準備をしています。

お当番さんは、活動を終えてから席についてご飯を食べるのですが、今日は大好きな友達と一緒の席に座ることが出来ない事に困っているらんらんさんがいました。 1テーブル6人の席に満員で座れません。  同じテーブルは座れず、隣のテーブルの近くを勧めると納得できずに下唇を噛み締めていました。誕生日席に座って食べ始めている子どもの席が最初の空席よりも近いため、誕生日席に座っている友達に声をかけると、『どうして?』と聞かれ事情を話すと席を譲ってくれました。  譲ってくれて満足の結果ではなかったですが、折り合いをつけてテーブルに座って食事開始。 座りたかった友達からは『近くだからね!』と声がかかりお話もできて食事を始めていました。

 

食事というと、栄養バランスなどの健康的な部分が多いようで実は人間関係、そして旬などの環境、彩りや盛り付けの表現など実はたくさんの意味があります。 特に以前から伝えている食は晩餐会、忘年会や新年会、花見、、、ホモサピエンスが食を分け与えられた本能もそうですが、人間関係が深く繋がっています。  この子と食べたい、一緒に食事を楽しみたいと言う気持ち、大切にしたいですね!

 

乳幼児はアクティブラーナーである

2021/03/06

人は一生、何かを感じ、考え、学び続けています。赤ちゃんから大人まで例外はありません。ただし学んでそれを身につけるとき、それがよく身につくためには、それを実際にやってみることが一番です。小学校以降の学習には、国が定めた学習指導要領があって、そこに学ぶ内容が教科と特別活動ごとに系統的に整理されています。文字を読めるようになったり書けるようになったり、九九を言えるようになったり、足し算や引き算ができるようになったり、いろいろな基礎・基本の学習が待っています。

その時、授業で教えてもらったことがよく身につくようにするには、知識だったらその知識を他の人に説明できるまで理解すること、技能だったら使ってみること、どうしてだろうという疑問だったら誰かと一緒に話し合ったり考えをわかり合ったりするといいのです。このような学習の方法を、「対話的で深い学び」と言われているのですが、いわゆるアクティブラーニングのことです。

年長のすいすい組10人は、あと1か月すると、小学校の学習で今いったような学習が始まります。保育園で行ってきた学びと何が違うのかというと、実はこの「対話的で深い学び」こそ、保育園で行っている遊びの中の学びそのものなのです。しかも、それは赤ちゃんからやっているのです。例を挙げてみましょう。

つい先日、すいすいタイムの様子がわらすのブログで紹介されています。みかんの缶詰ができるまでについて、子どもが「どうやって大きさの違いを分けているんだろう」と考えてみたり、きっとこうじゃないか、ああじゃないかと、語り合ったに違いありません。これは小学校でのグループ討議のようなものです。そして「そうか!」とわかったことを、子どもたちは誰かに話したがります。おうちの人に「ねえねえ、あのね、みかんの缶詰ってね」と話してくれたのではないでしょうか。学んだことを言葉で人に教えることは、人類が延々と営んできた最も得意な知識共有の手段でした。

学んだことを人に教えることは、知識の定着度が最も高いと言われています。その次に高いものが「自分でやる」というものです。これも赤ちゃんの頃から、乳幼児の独壇場です。なんでも自分でやりたがります。先生がちょっとでも面白そうなことをやった見せたりすると、僕もやる!と大騒ぎになります。私のすいすいタイムでも「わくわく実験」でもそうです。つい先日も、こんな光景をみました。

玄関先で自分の靴が靴箱から出ないので、お母さんが出してあげると、その子は<自分でやりたかったのに〜>と抗議の声を上げたのです。お母さんは、すぐにその気持ちがわかって「ああ、自分でやりたかったのね、ごめんごめん」と靴を戻してあげていました。子どものことをよくご覧になっているお母さんの、その応答的な対応は、まさしく子どもの自発性を損なわないで見守っていらっしゃいました。子どものことだからと、軽くみてはならないのであって、靴箱から自分の靴を自分で出して自分ではく、と言う意欲と態度は、学校での学習場面に置き換えるなら、自発的学習そのものです。

ヒトの脳は、何万年もの間、なすことを通じて学んできました。これはジョン・デューイが提唱した教育方法に極めて近いものなのです。彼の代表作『民主主義と教育』で「教育は、経験の意味を増加させ、引き続く経験の進路を方向づける能力を高めるような形での、経験の再構成または再組織化なのである」と述べていますが、この箇所は保育士試験に引用されています。

グループ討議、自分でやってみる、人に教える。この3つは学びの定着度が高い3方法だと言われています。私も聞いたり読んだり考えたりしたことを、こうして自分の書き言葉に置き換えるとき、知識の再構成や再文脈化が起きています。

イベルメクチンを承認したらいいのに

2021/03/05

3月7日の解除予定だった首都圏一都三県の緊急事態宣言が、3月21日(日)までの2週間再延期が正式に決定した今日3月5日(金)、3月21日(日)に予定している「卒園式」の実施方法について再検討しました。その結果は週明けにお伝えします。それにしても、2週間延期したところで、今日までに言われている政府の政策では、感染者数がこれ以上、減少するようには思えませんでした。こんなときは、私たちは時々「そもそも」に立ち返ってみることで、冷静な判断力を取り戻すことができるかもしれません。

私たちは何かの課題や困難に出会っても、それを乗り越えたり解決できそうだという「できるという見通し」があると安心する傾向にあります。100%やってくるにも関わらず、いつやってくるのかわからず、しかもその後がどうなるのか不明瞭な究極の課題や困難が「死」だとすると、それに至る可能性がある疾病が、人々の不安を掻き立てるのは間違いないところです。

実際のところ、日本人の全ての「死亡原因のトップ3」は、事故などではなく「病気」であって、一位ががん(悪性新生物)28%、2位が心疾患16%、3位が肺炎10%という割合です。それぞれの治療法が進んで、不治の病ではなくなってきました。特に早期に発見できれば治る割合も高くなっています。これらに対する「不安」が軽減してきているとしたら、その最も大きな原因は、やはり「治療」が向上したからではないのでしょうか。他の病気についても、そうだろうと思います。色々な病気に対して人類は「医療の質」を高めることで克服してきました。

「そもそも」医療というのは、3つの要素かると言われています。私が看護師の養成校で「教育学」の講師をしていたとき医療は「予防、診断、治療」からなるとテキストに書かれていました。私たちは病気に対しては、この3つのうち、まず「治療」が進歩することで「治るという見通し」から安心します。それに引き換え、いくら「予防」しても罹患することはあるし、症状が出ても、それがどんな病気なのかという「診断」ができないと、適切な治療に結びつきません。

新型コロナの場合は、ワクチンがない状態で「予防」が三密回避しかなくて対応が難しいし、変異ウイルスを含めて病原体へPCR検査や抗原検査などの「診断」もなかなか進まないし、そして治療薬がないなど「治療」が確立していないこと、この3つとも「見通し」がないから社会不安になっています。医療の3本柱がなく疫学的対応という1本柱で建物を建てようとしているように見えます。

このように「そもそも」で考えると、新型コロナウイルスの医療としての決め手の1つは、やはり治療薬なのでしょう。治療薬がないので、これまで、どうしても予防や診断の話になっててきました。緊急事態宣言で人と人の距離を取ろうという究極の荒っぽい予防策です。治療が難しいので、三密回避だとかワクチン接種だとか予防策の話が多くなり、莫大な費用をかける割に埒が明かない状態です。ついでに言うと、診断方法もこれまで政府ー保健所ー感染研ラインのPCR検査ばかりに偏ってきた気がします。

ところが、ここにきて海外では治療薬「イベルメクチン」が積極的に使われていると言う報道が増えてきました。アメリカでは1日に3万回も処方されています。東京医師会の尾崎治夫会長も厚生省へ早急に特例承認するよう要望しているようです。イベルメクチンは大村智(北里大学特別名誉教授)が北里研のキャンパスで1975年に発見した菌が元になっています。大村さんは、寄生虫感染症に効果がある薬の開発に結びつき(1981年アメリカMSD社と動物用の治療薬を共同開発し、1987年にはヒト用の治療薬をアフリカで無償提供を開始しました)、アフリカなどで35億人もの命を救ってきた実績が評価されて2015年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。今でも毎年3億人が使用しています。この薬が新型コロナにも効くことがわかり、世界中で使われ始めているそうです。

 

すいすいタイム

2021/03/05

今日は、すいすいタイムを前に「みかんの缶詰ができるまで」を動画で見ました。

・同じ大きさにするために、最初にどうやっておおきさを分けるのか
・みかんの皮をむきやすいようにするためには・・・

そんな知らない世界に興味を示していました。

終わった後にアイロンビーズなどお話しながら遊んでいる中で

子「うちゲーム買ってくれないんだよね」
子「うちも」 子「目が悪くなるからダメって言われているんだ」
子「うちは、スマホもダメって言ってる」子「ね~なんでダメなんだろ」

という会話が繰り広げられていて「中学生か!!!!」と突っ込みたくなった私はおじさんだな。と思ったのです。 たくましくなってきましたね。

 

来週はお別れ遠足。今日の予報で雨が出ています。。。てるてる坊主作戦が決行されるようです。

木場公園に行ってきました。

2021/03/05

先週におバス遠足。子どもたちはご自宅でもいかがだったでしょうか?

バス遠足は、成長展でご覧いただいた「環境領域」の中で選択する子どもが沢山選んでいたのを、ご覧いただけましたか。

バス遠足は予定していませんでしたが、子どもたちが選択するのは理由があるのです。「これができる」という明確な

目的を子どもたちがイメージできるようになっているとも感じています。

バス遠足を楽しみに待ち、当日を喜んで登園していた子どもたちですが、この気持ちを日常の保育園生活で当たり前に芽生えていけるような環境を作りたいと常に思っています。 保護者の皆様のご協力ありがとうございました。

子どもと一緒に物語の世界に入り込む

2021/03/04

子どもと一緒にいて幸せを感じるときは、どんなときですか? 何か素敵なものを分かち合っていると実感できる時ではありませんか。例えば「いいなあ、こういうの」と思っていることを「ね、いいよね」と頷き合うような時。あるいは夕食の一家団欒が、共感し合ううれしさで、笑顔や笑いがこぼれ出ているような時。こんな時間は多いに越したことはありません。何をするわけでもなく、「これしなくっちゃ」とか「ああでなきゃだめだ」という意識もスッコーンと抜けていて、脅迫めいた時間から解放されている。そんな「こどもの時間」をたくさん用意してあげたいと思います。

今日4日は、久しぶりに3階で絵本を読んであげる時間がありました。取り上げたのは、「たまごやきのたまこさん」と「どろんここぶた」そして「大どろぼうホッツェンプロッツ」の続きです。毛色の違う3種類の絵本は、その面白さの種類が違うのですが、子どもたちは、変な言い方ですが、それぞれの面白さを「しっかり」キャッチできる感性をもっています。これは心に余裕がないと、楽しめないんじゃないかと思います。それぞれの「おかしみ」を、クスクス笑ったり、「え〜っ」と、なんとも言えない感嘆の声をあげたり、それぞれの登場人物の気持ちを共感しているのが、よくわかります。

絵本を楽しむというのは、1人でその世界に入り込むのもいいのですが、こうやって1つの絵本をみんなで集まって読んでもらうというのは、案外、保育園のようなゆったりとした時間の中でしか、味わえない貴重なものかもしれません。小学校には、そんなまったりとした時間はないですし、家庭にはお友達がいません。

しかも、私が好きな絵本を読んでいるので、私がお話の世界の案内役とはいえ、完全にエコ贔屓している世界です。「ほら、いいでしょう」と、個人的な思い入れ100%の読み方です。私の心の動き、感情の起伏、どういう気持ちでいるかということが、子どもたちに伝わっているはずです。

大人が絵本を読んであげるのは、やってあげる保育であり見守る保育じゃない、と勘違いしないで欲しいのです。絵本の世界は、私という環境を通して子どもの体験になっているのです。私が媒体するものが絵本の世界です。子どもが1人で自分で絵本を読んで楽しむこととの違いは、私の心の動が環境となって、それを通じて魅惑の世界へ誘っていることにあります。佐伯胖さんの「ドーナツ理論」とほぼ同じです。私が文化的実践を通して、子どもたちをその世界へ誘う橋渡し役をしているという捉え方です。

 

top