勝ったり負けたりする勝敗のある事柄を人間は古来から好きなようで、それに人生をかけたり、職業にしたりすることができるようになった時代は、ある意味で恵まれていると言っていいのでしょう。ギリシャ時代からプロがいたそうですが、将棋にしてもスポーツにしても、その勝敗のレベルがどんどん高度になっていくにつれて、そのレベルに到達できる人たちは、本人の才能や努力が大いに影響するにしても、幼少期のうちからそれに没頭できるだけの恵まれた「何か」が左右するようです。子どもの頃に没頭して打ち込んだことが、将来の経済的自立に結びつくかどうかは、あまり考えても仕方がないことで、そういうことに左右されない生き方の真ん中を探りたいと思いながら、冬季オリンピックを見ています。
趣味ではなく、それが仕事になったりプロになったりできるのは、それを観て対価を払う人たちがいるからで、その分野が商業として成立する必要があります。それはマスコミが大きな影響力を持ちます。例えば日本で野球がこれだけ国民的スポーツになったのは、読売テレビが巨人戦を毎日放送してしたからですが、最近ではサッカーやバスケット、卓球など、リーグが成立しています。観たり応援したりする人が増えると、そのスポーツがメジャーになっていきます。それにはマスコミやSNSの視聴率とスポンサーがタッグを組む必要があります。その結果、多くの人が見て、それがカッコよかったり、素晴らしかったりして、やってみたい!という青少年が憧れるようになります。
冬のスポーツは雪や氷の上で行うので、滑ったり、躓いたり、溝に挟まったりと、予想外のアクシデントも起きて、力量だけではなくて運も左右することが、今回よくわかりました。その時、日本的美徳かどうかはわかりませんが、人によって競技への挑み方や勝ち方、負け方に差があって、負け方が潔かったり、悔いのない言葉を聞いたりすると、その心の姿勢に感動したりします。勝ち負けを超えたところにある競技への臨み方に魅力を感じます。その競技に向かい合ってきた姿勢のようなものですが、人間性がそこに現れてきます。その日本的情緒の質について、私たちが直感的に良し悪しを感じるのはどうしてなのでしょう。そんなところにアスリートの潔さや美しさを感じてしまいます。