(園だより8月号 巻頭言より)
神話や昔話を読んでいると、こちら側と向こう側のちょうど境目がよく出てきます。私たちが見慣れている世界がこちら側で、まだいったことがない未知の世界が向こう側です。私たちは行ったことがないから、その世界を知らないわけですが、でも時々、向こう側へ行ったことがあるという人が書いた本を読んだり、そんな人の話を聞くことがあって、その人がいうには、私たちはみんな向こう側から来たんだという。
私たちは実は何度もそこに行ったことがあって、あるいはそこを通過してきていて、そこだけでは成就できないことのために、また必要だからここへ来て、そしてここでいろんな人々と分かち合った体験をまた向こうへ持ち帰り、生全体のために生かすのだと。そんな生と死のつながりの物語を、幾度となく私たちはすでに経験しているのだと。
私たちがどこからやってきて、どこへ向かうのか、という問いは「永遠の問い」と言われていて、私たちの通常の意識では答えに辿り着くことはできません。それでも人間は、ずっとこの謎と向き合って生きてきました。実にさまざまな答えや物語を生み出しながら。この永遠の問いからは、決して逃れられないのが、私たち人間です。
私の答えは、こうです。向こうのことはわかりようがない、という事実を前提に考えることです。どうも〜こうらしい、を信じるのではなく、まず、こちら側のことをちゃんとわかろうとすることです。こちら側でちゃんと生きることです。「向こう側のことがわからないと、こちら側をよく生きられない」という前提を止めることです。わからないもののせいにしないで、わかり得るものを、もっとよくわかろうとすること。それがわからないことがわかった時にも、きっと後悔しない生き方になるはずだからです。
わかろうとしさえすれば明らかになることが目の前にあるのに、なぜ、わかり得ないとわかっていることに、わかったようなふりができるのでしょう。目の前の子どものことも、もっとよくわかろうとすることでわかること、そして分かち合えることがいっぱいあります。そして目の前に子どもがいない時でも、なくなることはない精神の存在を信じることもまた、その子のあり方を認めてあげることになることでしょう。私たちは、私たちが思っている以上に奥深い存在です。出会いも別れも永遠の一部なのです。