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2022年 11月

映画「夢みる小学校」が投げかける問い

2022/11/20

日曜日の今日20日、午前10時からと午後1時30分から2回、オオタヴィン監督の映画「夢みる小学校」を保育園の2階で上映しました。保護者の方々と協力して、一緒に開催しました。子どもも一緒にみたり保育室で遊んだりしながらの、親子でゆったり、のんびりの映画鑑賞会となりました。

この映画は、二つの公立学校(伊那市立伊那小学校と世田谷区立桜丘中学校)も紹介されていますが、ほとんどは教育研究者の堀真一郎さんが自ら創設した学校の一つ「南アルプスこどもの村小中学校」の実践が克明に描かれています。その実践をトピックス的に特徴を拾い出すと、体験学習、自己決定、プロジェクト、「先生」がいない、対話を通じた合意形成、子どもが自ら作り上げる行事などでしょうか。

よくある学校の学びと異なるのは、教科カリキュラムではなく体験カリキュラム的です。子どもたちが「めっちゃ楽しい」と生き生きと生活しています。ここにずっと居たいからと、そのまま先生になった「大人」もいます。この学校と既存の多くの学校との違いはなんだろうか? その一つは要領や指針の資質・能力の言葉を使えば、こうなりそうです。

子どもの好奇心や探究心からの「感じたり、気付いたり、分かったり、できたり」の知識や技能を使って、思考力や判断力や表現力に活かされていくという構造は既存の学校での学びと同じなのかもしれませんが、その営みを活性化させる心情や意欲がとても躍動しています。学びに向かう力が圧倒的です。やはり体験そのものを選択して自己決定していること、つまり幼児期でいう「自発的な活動としての遊び」と同じ心理的原理が、そこには働いているように見えます。この差は大きい。

そして、どの子ども「自分のままでいい」ということの具体的な事例がたくさん紹介されています。不登校だった子や発達障害と診断されて薬を処方されていた子が、ここでの生活で回復していきます。その本人の告白もあって、私などは、そういうことに心打たれてしまいます。ここに養護の本質的な働きがあって、自分が認められているということ、つまり本当の心の安全基地があり、生活の営みの中に自己回復できる居場所になっていると言えます。

このケアリングの機能が豊かに働いているので、大いなる自然の一部でもある人間もまた、自然と調和していきているという実感が、子ども自身を励まし、幸せにしているのです。観た方のアンケートを読むと、それに共感されている方々が多く、その声が切実なものとして伝わってきます。それだけ、この映画が問いかけているテーマは緊急を要するものです。

珍しいユニークな学校の一つ、という括りでは済まされないものを、この映画は問いかけています。特色ある学校づくりの一つ、という地平で並べて済ませてはいけません。決定的に違う、のです。それを確かめ合っていく作業が間違いなく必要になっていくでしょう。その営みに希望が持てるのは、この問題に多くの国民が気づき始め、さまざまな改善や改革が全国各地で始まっています。今回の自主上映会は「東京に新しい学校をつくる会」も後援しました。

 

アダプト活動で地域への愛着を育てる

2022/11/19

街の花壇に親子で花を植えてみました。そこは保育園から神田川を挟んで見える最も近い公園の花壇です。よく出掛けている場所なので、そこに花で飾るというのは、子どもにとってどんな体験になったのでしょうか。

19日土曜日の午前中に行いました。千代田区のアダプト活動です。5月と11月の年2回、ちよだの水辺を魅力ある都市空間に再生する会(岡田邦男理事長)の音頭で、お茶の水ロータリークラブや佐久間橋一丁目町会など地域団体が合同で行うもので、当園も毎回参加させてもらっています。

2歳児から年長さんまでいましたから、年齢によっても違うでしょうが、普段遊んでいる場所が花できれいになっていくことを「わあ、見違えあるようになったね」「きれいだね」などと親子で語り合っています。

 

私はじょうろで水をかけるときに、支えてあげながら子どもに取っ手を持たせ「ほら、どうぞ〜って。お水だよ、お花さん、喉が乾いてたんだって、おいしいって飲んでるね。こっちのもかけてあげようね」と言いながら、お花に水をかけてあげます。

何かを大事にするとか、きれいにするとか、いろんなことを言葉で伝えるだけではなくて、実際に物にさわり、感じ、感覚を働かせることで「環境(ここでは花や土や水や花壇など)との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり考えたりするようになる」ということなのでしょう。

このように、区民のみんなが集まって、清掃をしたり花を植えたり、花に水かけたりする姿に接することを通して、また自分でもやってみることを通して、自分達の住んでいる街に愛着をもち、公共心の芽生えにつながっていくのかもしれません。

<アダプト活動とは>
市民と行政が協働で進める街の美化プログラムのことで、アダプト(Adopt)は「養子にする」を意味する英語です。公共の場所を養子にみたて、市民がわが子のように愛情をもって世話(清掃美化)をし、行政がこれを支援する制度のことです。

対立から合意を得るプロセスの対話

2022/11/18

今日はいまベストセラーになっている本の著者とzoomで話し合う機会がありました。いろんな話をしたのですが、学校教育と保育が重なってくるテーマのうち、この二つが印象に残りました。それは自律と対話です。

その方は生徒の自律を大事に実践してこられた方です。手をかけすぎたり、指示してできるようにさせることが子どもの自律を妨げているというのは、繰り返し主張されています。この話は当園の理念に置き換えると「やってあげる保育から見守る保育へ」の趣旨と同じです。また対話の方は、合意形成の過程としての対話が中心でした。したがって民主主義の要でもある対話と同じ趣旨です。これは藤森保育道ではずいぶん前から「共同体から共異体へ」と説明してきたのですが、それとほぼ同じものです。

二つ気づきがありました。一つは同じ言葉でも想定することが異なると、プラスと思っていたことがマイナスにもなるということです。例えば保育では「寄り添う」というのは、大人が子どもの傍にいても、支えると同時に未知の世界への誘いにもなっている「自律の援助」と了解されているはずですが、その方の理解では、多くはやってあげたり過干渉だったりすることと誤解されてしまうのではないか、というのです。人によって言葉の受け止め方はかなり違うものですね。

また、この方の話を聞いていると、あたかも学校教育の中にいると、その世界で見聞きしていることが世間の大多数だと錯覚しがちになるのかな、と思いました。その方の見えている世界がそうだとすると、逆に学校の世界は、そんなに旧態依然としているのだろうかとさえ、不安になりました。本当にそれが大多数なら、それは相当に「ヤバイ」状況です。ある意見と意見が異なっているなら、それが両立できる「解」をぞれぞれが話し合って合意点を見出そうとすることが大事なのですが、そんなに簡単に多数決で決まっているのでしょうか。

いま民主主義の話が盛んです。宇野重規さんの「民主主義とは何か」は入門書として最適でしょう。私はジャーナリズムの勉強をしていた20代の頃に「異なる意見があるからこそ対話を通して社会が成熟する」と教わってきました。この感覚がなくなったら、異なる意見を取り上げる報道の意義も喪失します。これと同じことは、異なる意見を聞いて考えるという体験が、学校にもあるはずですが、現実はそんなに少ないのでしょうか。

そういえば、映画で比較するのもおかしいですが「夢みる小学校」に出てくる多数決よりも「こどもかいぎ」の方が、本来の民主主義的な姿勢を育んでいると、私は思っています。これは一度皆さんも考えてもらいたいテーマの一つですね。

 

モルモットをなでてみたら・・・

2022/11/17

子どもが生きた動物を膝に乗せて撫でてみる。こんな単純なことも、そう簡単にできる体験ではないことが、やってみるとわかります。今日17日は年長と年中組の18人が、地下鉄に乗って上野公園へ出かけ、モルモットをそっと触ったり、なでたり、膝の上に乗せてあげたりしました。

上野動物園はコロナ禍で長い間、団体見学ができなかったのですが、この11月から解禁になりました。ただ今日のは「学校団体プログラム」といって、動物園がおこなっている教育活動の一環です。

説明によると「モルモットを間近で観察しながら、食べ物やうんちについて学びます。動物をよく見て観察する楽しさを感じてもらいます」とあります。

ちょっと、音に敏感で、おとなしいモルモットたちは、子どもたちに優しく撫でられると、気持ちよさそうにしています。人に懐いている理由をスタッフに聞くと、小さい時からよく撫でてあげることで、撫でられると心地よいと、感じるようになるそうです。

子どもにとって、相手が気持ちよさそうにしていることを感じ取ることができたら、それはいい経験になったことでしょう。ふわふわしたものを撫でて気持ちがいいなら、ぬいぐるみと変わらないでしょう。

そうではなく、実際に動物が心地いいと感じることをやってあげることの小さな喜びは、やはり相手が喜んでくれることを感じた時ではないでしょうか。1日に200個もうんちをするそうで、パネルに整然と並んでいる柿ピーのようなうんちの列を見ながら、スタッフの愛情と情熱も感じたのでした。

外で食べるおにぎり弁当も、久ししぶり。小春日和ののどかな一時を満喫です。

 

千代田区主催の合同こども会 劇団かかし座の「不思議の国のアリス」

2022/11/16

千代田区内のすべての幼稚園、こども園、保育園の年長児が集まって観劇するという「合同こども会」が今日16日、東京オリンピック記念青少年センター(オリセン)で開かれました。主催は千代田区教育委員会で、大型バスを使って全ての園を回って園児を運んでくれます。今回の劇は、影絵演出が特徴的な劇団かかし座の「不思議の国のアリス」。約1時間の大作でした。長い時間にもかかわらず、園児を長時間惹きつけることができるのは、さすがプロだと感心しました。

その工夫に目を向けると、面白い物語の内容もさることながら、役者たちの迫力のある生の声、抑揚のあるはっきりとわかりやすいセリフ、ユーモアのある楽しい会話、舞台とスクリーンを使った影絵の融合的な表現、歌や踊りのあるミュージカル的な進行、時々、客席にいる子どもたちとの交流を交えた鑑賞・参加を取り混ぜた演出と、児童文化財を子どもたちに観せたりする時のポイントの完成度の高さを学ぶことができます。

開会の教育長の挨拶の中に「二倍楽しむ方法」という話があったのですが、それは今日みたことをお家の人に話してみること。そうすると楽しさは二倍になりますよ、と。さて、どうだったでしょうか。

子どもの経験の総体がカリキュラムである

2022/11/15

教科に分かれたカリキュラムではなく、経験カリキュラムで小学校以降の教育課程を描くことはできないのか。それを実現させている学校に近年、注目が集まっています。例えば「軽井沢風越学園」のホームページを見てみましょう。そこにはこう書かれています。カリキュラムとは「子どもの経験の総体」ですと。そこを引用してみましょう。

<軽井沢風越学園では、3歳から15歳までの12年間の連続性を大切にしたカリキュラムを目指しています。 実体験と抽象、探索と探究、あそびと学び…。それらを行き来しながら、一人ひとりの「自分をつくる」と「自分でつくる」時間を積み重ねます。

わたしたちは、カリキュラムとは「子どもの経験の総体」と捉えています。子どもは授業等の意図された時間の中だけで学んでいるわけではありません。森やライブラリー、ラボなどの環境、活動によって変化する集団、異年齢の子ども同士の関係や日々のスタッフの関わり、たっぷりある昼休み時間でのあそびもカリキュラムです。時には地域の人や専門家に出会いながら、風越学園に集まる人たちと街のようなコミュニティで経験することも、その一つです。>

つまり、学校だけの経験ではなく、地域で過ごす時間も家庭で過ごす時間も、カリキュラムだという考え方なのです。この捉え方は、就学前の保育園の考え方と似ています。「生活の連続性」という言葉で、園生活と家庭生活を連続しているものとして把握し、子どもの経験の総体を捉えようとしてきました。学校の学びは、家庭や地域での学びとつながっているからです。

ところが日本の多くの学校は、そのように考えていません。学校、家庭、地域の三角形はそれぞれの役割があるのだから、学校はその目標達成に専念すればいい、という意識が残っていて、家庭や地域とつながったカリキュラムの構想を企てているところはあまりありません。もし保育園がその延長に学校を作るとしたら、当然ながら経験カリキュラムを採用し、風越学園が行っているような理念を掲げることとなるかもしれません。

喜びもひとしおに感じる瞬間について

2022/11/14

子どもや親御さんと話をしているときに「楽しい」と思うのは、気持ちが通じ合った時です。通い合う、理解し合うというのは、こんなに楽しいものかと思う時があります。そして、さらに理解しあった内容が、お互いに望んでいることだったら尚更です。それは生活の中で、食べたいものが一緒だったとか、行きたい場所が同じとか、会いたい人に一緒に会えるとか、いろんなことで起きるでしょう。それはビジネスシーンでも同じで、目指している目標が一緒に達成できたりすると、それは喜びもひとしおでしょう。

そんなふうに考えると、それは大人に限らず、人は赤ちゃんの頃から、好きな人がそばにいて、自分の気持ちを受け止めてくれたり、共感してくれたりすることをとても求めています。大抵はそれは親ですが、そうでなくてもよく、そういう人がそばにいるから、その人に近づき、くっつき、触り、よく聞こうとします。そういう人に自分の気持ちを伝えたくて、話そうともします。指をさしたり、教えたり、助けたりさえします。そうして言葉も獲得していき、人と支え合うために自立心が育まれていくように、支え合って分かち合うことから共同性も育まれていくことになるのでしょう。

今日は20日に上映する映画「夢みる小学校」の通し上映(テスト上映)をしたのですが、その準備や打ち合わせなどの打ち合わせを積み重ねていくうちに、いろんなところで嬉しい気持ちになります。さらに分かち合う内容が、夢の実現に向かい営みだとしたら、それを抱くことができることは、冷静に考えれば稀なことでもあり、幸福なことなのだと思う瞬間もあるのでした。

第三者評価とカリキュラム・マネジメント

2022/11/13

この時期になると、評価機関から「第三者評価をしてほしい」という依頼が来るようになります。東京都の保育所は最低3年に一度、第三者評価を受けなければなりません。保育の内容に関するものが2分野、組織に関するものが1分野あります。最近は組織マネジメントの第三者評価を担当することが増えました。これまで50を超える保育園を評価してきました。でも受けるのを躊躇するようになりました。というのも、第三者のあり方にいろいろな疑問を抱くようになってきたからです。その理由はいろいろありますが、一つは保育の質の定義、特にカリキュラムという考え方との関係が曖昧なことと関係しそうです。

藤森統括園長は私が保育の仕事に就いた1997年ごろ、すでに「経営の強化は保育の質の向上から」と強調していました。当時、全国私立保育園連盟の経営強化委員会の委員長として「保育の質」を常に取り上げていました。その頃すでに待機児童の問題や、選ばれる保育園のための保育サービスということは言われていて、子どもの経験に直接関係する質に関しては、なかなか議論されててこなかった気がします。

例えば「カリキュラム・マネジメント」という言葉は、その頃、つまり平成10年(1998年)の幼稚園教育要領などの改訂の頃、海外の事例が紹介される形で語られるようになったと記憶しています。就学前の保育は、経験カリキュラムで、教科に分かれている小学校以降の学校は教科カリキュラムと言われています。そのカリキュラムのマネジメントを考えようと言うわけです。その後、カリキュラムの改善としてPDCAサイクルの対象になっていきます。

ところが幼稚園やこども園ではこの言葉はよく使われているのに、保育園では馴染みが薄い気がします。それ以前に、保育園ではカリキュラムという考え方そのものが馴染まない風土のようなものがあります。平成20年告示の保育所保育指針で解説書を作っているときに「保育課程」という概念を提示したのですが、今回の指針改訂ではその概念は無くなりました。そんなところにも、まだ保育をカリキュラムとしてどう考えるのか、定まっていないことと関係しているのでしょうか。

ところで保育所は児童福祉施設なので第三者評価を受ける必要があります。一年単位のPDCAサイクルが回っているかが問われていくようになるのですが、それは組織の運営に関する全般的なマネジメントなので、必ずしもカリキュラムの改善に焦点が当たっていません。保育の質の向上とは関係がない事例も、サービスの向上として評価されます。例えば保護者支援として、おむつをサブスクにして便利にしたとすると、そんなことでも経営強化になれば、立派なマネジメント向上として評価されます。

本来は自己評価があって、その上で第三者の評価を自己評価に生かす、そういう関係が好ましいと考えるのですが、その自己評価そのものが不安定なままかもしれません。子どもの体験の質をどんな形で自己評価するといいのでしょうか。その基本はおそらく、子どもの資質・能力の変容過程に影響している要素を取り出して、その要素が働く機能の「しくみ」を想定すること、そしてその「しくみ」を自己評価したいところです。

しかし、そこが難しい。経験カリキュラムの自己評価、それは個人の学びの軌跡をどう可視化するか、という課題に戻っていくからかもしれません。11月23日、東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター(Cedep)は、国際シンポジウム「子どもと大人の学びを編む:プロジェクトのなかのドキュメンテーション」を開きます。この課題の糸口を探してみます。

 

架け橋のむこう

2022/11/12

先日の「クラスブログ」に、最近の年長すいすい組の姿が断片的に紹介され、こんなことが書かれています。「小学校がイメージしてくるすいすい組。 幼児期までに育ってほしい10の姿。 これが育まれていることを感じる姿がよくよくみえてくる最近のすいすい組です。」と。

小学校がイメージしてくる、というのは、小学校へ就学すること想定すると、こんな姿を捉えてみたくなる、意識してみたくなる、そうした窓でそんな姿を切り取ってみると・・・といったことでしょうか。そうしたら、そこに「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」でいう姿が見えている、というわけでしょう。例えば、こんな姿です。

◆泣いているお友達がいて、「どうしたの?」と駆け寄り、(お当番一人でやるの嫌)理由がわかると「そしたら一緒にやってあげようか。」と提案する姿。

◆自分のお当番の日ではないけども、「先生。今日は○○がお休みでいるからお当番変わりにやるよ」といって、エプロンを取りに行く姿。

◆「今日は○○が掃除当番やらないって、だから代わりにやってあげるよ」とお掃除当番に来る姿。

◆「昨日、また遊ぼうと約束していたから1階にお手伝いに行かないといけないから、いい? (その子が)待っているんだよ」と乳児の言葉に耳を傾ける姿。

◆「もう少し、こうやるといいんだよ」とエサのあげ方、関わり方のアドバイス、やらせてあげようとする姿。

◆「あ。私書けるよ。書いてあげようか。」(自分でやる)「そうわかった。あ、すごい上手!!!」と手伝っているようで寄り添っている優しさ。

◆「みんな。今はさ、○○をするときだから、もうはじまるよ」とリーダーシップ。

こんな姿が「子ども同士のかかわり」の中だからこそ出てくるものなのでしょう。さて、そうした関係の継続も小学校以降の生活と学びにどのようにつながっていくか、担任は気になっているようです。「架け橋」の向こう側でも、そうした人的環境を構築していってもらいたいと、担任は考えています。

子ども同士のかかわりーその意味と役割をもっともっと

2022/11/11

姉妹園の新宿せいが子ども園(藤森平司園長、東京・高田馬場)のところには、いろいろな人がきます。最近は小池都知事がやってきて、これからの子育て支援で必要なことを視察しました。映画「こどもかいぎ」の豪田トモ監督もきて、子どもが育つ環境の質について語り合いました。多くの人が子ども未来や子育てのあり方を考えています。藤森統括園長や私が常々思うことの一つは、子どもの「子ども集団」の中での経験です。進化心理学者のスティーブン・ピンカーは、1998年5月に、「子ども同士のかかわり」「仲間集団の重要性」を指摘したジュディリス・リッチ・ハリスの書『The Nurture Assumption』(邦訳は『子育ての大誤算』)(早川書房)に次のような序文を寄せています。

「この驚くべき一冊をはじめに読めたことは、心理学者たる私のキャリアの中でも至上の体験の一つとなった。学術的であり、革新的でもあり、洞察に満ちた、また驚くほど明確で既知に富むこのような本には、なかなか出会えるものではない。ただ、あまりのおもしろさに誤解しないでもらいたい。本書は真面目でかつ伝統にとらわれない科学の本である。おそらく心理学史に転機をもたらした一冊として名を残すことになるだろう。」

このハリスの議論は「藤森保育道」(学、ではなく道、と私たち仲間は呼んでいるのですが)に大きな示唆を与え続けてきました。というよりも、藤森先生が独自につくりあげてきた保育が、偶然あとでハリスの議論と出会うのです。ハリスの議論は発表された当時、異端扱いされたエピソードが伝わっていますが、私たちの印象では、学術的な世界の中のことはわかりませんが、保育園の生活の中で起きていることととても親和性が高いのです。子どもが独自に作り出す集団のダイナミズムは、大人が枠をはめた子ども同士ではありません。

このハリスが提示したことは、親子関係や子どもと保育者の関係、子どもと研究者の関係など、主に二者関係で見えてくる子どもの姿は、集団の中での子どもの姿は異なる、という事実から根本的に考え直してみることを、促します。書きぶりが刺激的なので、ピンカーも「その論点ははじめこそ直感に反するような印象を与えるが、読み進むうちに実生活では出会うこともないような従順なヒトもどき(ニューマノイド)ではない子どもと親の実像が明確になっていく。その他にも、児童発達研究で頻繁に登場する方法論を痛烈に批判し、なぜ学校が機能しないのかという問題も斬新な観点から分析する・・・」と書いています。きっとそうだろうな、と思えることが多いのです。機会があれば、ぜひお読みください。

この意外性は、核家族化や虐待、育児休業の延長の影響、3歳児神話を支えている発達観などを考えるときに、私たちが意識せずに信じている考え方が「違うかも?」と気づく意外性と重なってきます。子どもと家族を取り巻く環境の影響を再考するとき、どうしても「子ども同士」「子ども集団」の中で起きていることを捉え直すことが必要だと思えるのです。

 

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