◆この映画の最も大切なメッセージとは
映画「みんなの学校」の上映会をやりました。この映画のメッセージでもっとも大切なことは、地域の公立小学校が誰もが安心して過ごせる場所になることを目指した実践であることでしょう。この映画を企画した関西テレビ(当時)の迫川緑さん(真鍋俊永監督と夫婦)の文章(『自立へ音立てられる社会』インパクト社)によると、この映画が初めて上映された2015年当時「生身の子どもたちの姿を映し出したことで映画の反響も予想以上に大きかった」そうです。
文部科学省の職員向けにまで上映され下村博文文科大臣は「木村さんのような校長が全国2万の小学校に広がったら」と、述べたと書かれています。映画のサイトには、コメント欄に教育評論家の尾木直樹さんも「驚いた!ここには、ありのままの公立小学校の魅力が、大胆に惜し気もなく躍動している。人間が発達可能体であることを、限界なしに教えてくれる。それにしてもスゴイ記録映画が完成したものである。学校と教育の未来に、希望が湧く映画である。」と書いています。
http://minna-movie.jp/index.php
この映画の舞台となった大阪市立南住吉大空小学校。その初代校長で9年間勤めた木村泰子さん自身が、教育開発研究所『学校の未来はここから始まる』(2021年3月)の中で、「みんなの学校ができるまで」というコラムを書いています。こんな強い思いがあったから、このような学校ができたということがわかります。機会があれば、これもぜひお読みください。木村さんは、この本(工藤勇一さん、合田哲雄さんとの座談会)の中で、大空小の実践の意味を詳しく説明しています。それを読むと、素晴らしい考え方であり、強く共感していたのです。確かにこの考え方で、インクルージョンを進めてほしいと感じる内容でした。
◆私が感じた違和感とは・・
ところが、実際に映画を見ると、あれ!っと思うことがあって、私は別の感想を持ちました。ここからは全く個人の印象です。映像から伝わってくる子どもたちの姿は大人が期待していることに、子どもが必死で合わせられているように見えました。私はこの強い教育指導の力に対して、またそうした強引さに対して嫌悪して育ってきた人間だからかもしれません。特にケアリングと「環境を通した保育」を大切にしている私は、このような直接的な指導による営みに警戒心を抱いてしまうのです。
私たちは子どもたちに豊かな選択肢を用意します。そして当事者の相互の関わりも大事にします。子どもの可能性を信じて、訓話ではなく対話を丁寧に繰り返します。あたかも似ているように見えますが、とても大きな違いだと感じました。
それでも、この学校をよく知る校長先生から、こんなアドバイスもいただいています。
「・・・大空小学校のお話は、大阪の南部地域の方々の生活とともにあります。差別、貧困、偏見、虐待、トラウマを親子が抱えている上に発達に特性のある子が50人学校にいる。そうした状況は当たり前にある状況とはわけが違います。時代が変わっても、子どもの本質は変わりません。私は、みんなの学校の中に込められているメッセージを受け取り、ひたすらに子どもを分かろうと日々、子どもに向き合っています・・・」
頭が下がります。この映画を理解するには背景と歴史を知る必要がありそうです。ここでは、このやり方がふさわしいmのなのか、と私の見方が揺れ動きます。こんなふうに私には思えます。
◆映画だけでは伝えきれないものがあるかも
いくら主語を大人から子どもに取り替えたところで<育つ>ようにしむけている力の流れは一方向になってしまっているように感じます。もっと子ども主体の、モザイク状のリゾーム状の、複合的な空間にしないといけないのです。やぱりピラミッドになってしまっているように見えました。校長がトップマネジメントで表に出ているリーダーシップと組織でもいいのですが、それで出来上がっているこの学校空間そのものに、拒否反応を持つ大人と子どもはいないのでしょうか。もしいないなら、家族を含めた同じ志向や価値観を共にする共同体になってしまう危険性を感じます。
例えば、映画を見て気持ち悪くなってしまった友人がいます。こんな感想を寄せてくださいました。
<・・・この映画を「良きもの」として進めてしまうと、インクルージョンの考え方が逆戻りにしてしまう。 日本の教育を受けてきた一般の大人は、子どもの権利擁護について、ある意味鈍感で、真剣に向き合ってこなかったと感じています。幸か不幸か、今世の中に子どもに関するいろいろな事件が起きているから、今こそこのことについて考えてもらいたいと思っています。そのためには子どもは考える力や意思をしっかりともっているし、子どもの能力への信頼をベースにしたコミュニティーづくりが大事になってくると思います。 ・・・>
大人と子どもの信頼関係の構築の方法に違和感を感じるのか、子どもを育てるべき対象と見ているからなのか、私も数回見直したのですが、今でもその違和感は拭えないのです。そして、そこもぜひ観ていただいて、私の感じ方がおかしいのかどうか、意見を聞きたいと思いました。木村泰子さんの本も読み、共感するところも多く、学ぶことも多いものです。でも私は映画を見る限り、ちょっと違ったのでした。時代も地域性も考慮した上で、子ども観、教育観、教育方法のちょっとした違いなのでしょうか。ほとんど同じようなことを考えているのに、語られている言葉も同じようなのに、です。
◆まずはすべての子どもが同じ場所で学ぶ土俵を
どんな学校を目指すべきでしょうか。木村さんはこう主張します。
「今、工藤さんから、子ども自身がで学びを選んでいけるようにする必要があるとのお話がありました。その際に気をつけなければならないのは、すべての子どもたちが同じ場で学ぶ「土俵」をつくったうえで、選べるようにすることです。さまざまな特性を持った子が一緒にいるのが当たり前の「土俵」をつくり、その上で学ぶ場を選べるようにすることです。そうしなければ、子どもたちが分断されてしまいます」。
この本の中で語られていることはその通りだと思います。基本は地域での生活の延長として学校があり、そこに集いながら生活を共にできる場的な統合を図りながら、そこに教師以外にも必要な人々がいて、カウンセリングなり医療なり療育なりを受けられるような時間と場を作っていくようにすべき時代なのだと思います。学ぶ内容もその子どもに合ったものを用意します。子どもが学び合うこともできるように。
排除されたきた場所に比べてまだいいから集うというのではなく、その子どもと家族にとって分けられていない、という安心感の中で通えるような包摂空間です。そして、そこに馴染めない場合の学校はフリースクールではダメです。木村さんも強く主張するように、同等の一条校であるべきなのです。それが無理ならせめて、なぜフリースクールなら通えるのかという、その条件や空間を、どうやったら一条校が取り入れられるのかを学び、取り入れるべきなのでしょう。全国各地で新しい実践が始まっているようです。自治体はこの動きに今こそ敏感にならないと、世界の潮流から取り残されるかもしれません。