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2022年 12月

映画「みんなの学校」のインクルージョン

2022/12/17

◆この映画の最も大切なメッセージとは

映画「みんなの学校」の上映会をやりました。この映画のメッセージでもっとも大切なことは、地域の公立小学校が誰もが安心して過ごせる場所になることを目指した実践であることでしょう。この映画を企画した関西テレビ(当時)の迫川緑さん(真鍋俊永監督と夫婦)の文章(『自立へ音立てられる社会』インパクト社)によると、この映画が初めて上映された2015年当時「生身の子どもたちの姿を映し出したことで映画の反響も予想以上に大きかった」そうです。

文部科学省の職員向けにまで上映され下村博文文科大臣は「木村さんのような校長が全国2万の小学校に広がったら」と、述べたと書かれています。映画のサイトには、コメント欄に教育評論家の尾木直樹さんも「驚いた!ここには、ありのままの公立小学校の魅力が、大胆に惜し気もなく躍動している。人間が発達可能体であることを、限界なしに教えてくれる。それにしてもスゴイ記録映画が完成したものである。学校と教育の未来に、希望が湧く映画である。」と書いています。

http://minna-movie.jp/index.php

この映画の舞台となった大阪市立南住吉大空小学校。その初代校長で9年間勤めた木村泰子さん自身が、教育開発研究所『学校の未来はここから始まる』(2021年3月)の中で、「みんなの学校ができるまで」というコラムを書いています。こんな強い思いがあったから、このような学校ができたということがわかります。機会があれば、これもぜひお読みください。木村さんは、この本(工藤勇一さん、合田哲雄さんとの座談会)の中で、大空小の実践の意味を詳しく説明しています。それを読むと、素晴らしい考え方であり、強く共感していたのです。確かにこの考え方で、インクルージョンを進めてほしいと感じる内容でした。

◆私が感じた違和感とは・・

ところが、実際に映画を見ると、あれ!っと思うことがあって、私は別の感想を持ちました。ここからは全く個人の印象です。映像から伝わってくる子どもたちの姿は大人が期待していることに、子どもが必死で合わせられているように見えました。私はこの強い教育指導の力に対して、またそうした強引さに対して嫌悪して育ってきた人間だからかもしれません。特にケアリングと「環境を通した保育」を大切にしている私は、このような直接的な指導による営みに警戒心を抱いてしまうのです。

私たちは子どもたちに豊かな選択肢を用意します。そして当事者の相互の関わりも大事にします。子どもの可能性を信じて、訓話ではなく対話を丁寧に繰り返します。あたかも似ているように見えますが、とても大きな違いだと感じました。

それでも、この学校をよく知る校長先生から、こんなアドバイスもいただいています。

「・・・大空小学校のお話は、大阪の南部地域の方々の生活とともにあります。差別、貧困、偏見、虐待、トラウマを親子が抱えている上に発達に特性のある子が50人学校にいる。そうした状況は当たり前にある状況とはわけが違います。時代が変わっても、子どもの本質は変わりません。私は、みんなの学校の中に込められているメッセージを受け取り、ひたすらに子どもを分かろうと日々、子どもに向き合っています・・・」

頭が下がります。この映画を理解するには背景と歴史を知る必要がありそうです。ここでは、このやり方がふさわしいmのなのか、と私の見方が揺れ動きます。こんなふうに私には思えます。

◆映画だけでは伝えきれないものがあるかも

いくら主語を大人から子どもに取り替えたところで<育つ>ようにしむけている力の流れは一方向になってしまっているように感じます。もっと子ども主体の、モザイク状のリゾーム状の、複合的な空間にしないといけないのです。やぱりピラミッドになってしまっているように見えました。校長がトップマネジメントで表に出ているリーダーシップと組織でもいいのですが、それで出来上がっているこの学校空間そのものに、拒否反応を持つ大人と子どもはいないのでしょうか。もしいないなら、家族を含めた同じ志向や価値観を共にする共同体になってしまう危険性を感じます。

例えば、映画を見て気持ち悪くなってしまった友人がいます。こんな感想を寄せてくださいました。

<・・・この映画を「良きもの」として進めてしまうと、インクルージョンの考え方が逆戻りにしてしまう。 日本の教育を受けてきた一般の大人は、子どもの権利擁護について、ある意味鈍感で、真剣に向き合ってこなかったと感じています。幸か不幸か、今世の中に子どもに関するいろいろな事件が起きているから、今こそこのことについて考えてもらいたいと思っています。そのためには子どもは考える力や意思をしっかりともっているし、子どもの能力への信頼をベースにしたコミュニティーづくりが大事になってくると思います。 ・・・>

大人と子どもの信頼関係の構築の方法に違和感を感じるのか、子どもを育てるべき対象と見ているからなのか、私も数回見直したのですが、今でもその違和感は拭えないのです。そして、そこもぜひ観ていただいて、私の感じ方がおかしいのかどうか、意見を聞きたいと思いました。木村泰子さんの本も読み、共感するところも多く、学ぶことも多いものです。でも私は映画を見る限り、ちょっと違ったのでした。時代も地域性も考慮した上で、子ども観、教育観、教育方法のちょっとした違いなのでしょうか。ほとんど同じようなことを考えているのに、語られている言葉も同じようなのに、です。

◆まずはすべての子どもが同じ場所で学ぶ土俵を

どんな学校を目指すべきでしょうか。木村さんはこう主張します。

「今、工藤さんから、子ども自身がで学びを選んでいけるようにする必要があるとのお話がありました。その際に気をつけなければならないのは、すべての子どもたちが同じ場で学ぶ「土俵」をつくったうえで、選べるようにすることです。さまざまな特性を持った子が一緒にいるのが当たり前の「土俵」をつくり、その上で学ぶ場を選べるようにすることです。そうしなければ、子どもたちが分断されてしまいます」。

この本の中で語られていることはその通りだと思います。基本は地域での生活の延長として学校があり、そこに集いながら生活を共にできる場的な統合を図りながら、そこに教師以外にも必要な人々がいて、カウンセリングなり医療なり療育なりを受けられるような時間と場を作っていくようにすべき時代なのだと思います。学ぶ内容もその子どもに合ったものを用意します。子どもが学び合うこともできるように。

排除されたきた場所に比べてまだいいから集うというのではなく、その子どもと家族にとって分けられていない、という安心感の中で通えるような包摂空間です。そして、そこに馴染めない場合の学校はフリースクールではダメです。木村さんも強く主張するように、同等の一条校であるべきなのです。それが無理ならせめて、なぜフリースクールなら通えるのかという、その条件や空間を、どうやったら一条校が取り入れられるのかを学び、取り入れるべきなのでしょう。全国各地で新しい実践が始まっているようです。自治体はこの動きに今こそ敏感にならないと、世界の潮流から取り残されるかもしれません。

クラスを越えて

2022/12/17

きのうはちっち組からわらす組まで、和泉公園で大集合でした。
ちはるちゃんは、すいすいのそうすけくんが手をつないでくれて、エスコートしてもらいながら、何度も一緒にすべり台を楽しんでいました。



たっぷり遊んだ帰り道は、いつもよりお疲れモードのぐんぐんさん。口数も少なくて、気がつけば、さゆきちゃんは、夢の中…💤

この日はわいわい組のみつほちゃんも、一緒に過ごしていました。
お昼寝の時間。『向こうのお部屋で遊ぶのもイヤッ』『寝るのもイヤッ』『自分の布団もイヤッ』という まおちゃん。「みつほちゃんのお布団で一緒に寝たいの?」と聞くと、うんうんとうなずいています。
すると、みつほちゃんがさっと、自分の掛け布団を持ち上げて、まおちゃんが入れるようにスペースを作ってくれました。

みつほちゃんのお布団に入れてもらって嬉しそうなまおちゃん。
ふたりでにっこり笑い合ったり、小さい声でちょこっとお話したり、幸せそうな時間を過ごすうち、ふたりとも眠りについたのでした。

よく見るだけでなく、 よく聞いてあげる。

2022/12/16

先日の園長日記の「子どもの姿の見えかた」について、担任をしていると見学者、実習生、時には他クラスの先生では見えない子どもの姿を捉えらえるときがあります。これは、日頃の関わりの連続や成長を見守ってきている担任という事もあると思います。しかし、人間ですから見えているといっても、わからない事の方が多いのです。 


☆お母さんと離れる事ができない
今朝、登園するとお母さんと別れてゾーンに入っていったけれども、「お散歩の準備をはじめよう」と声がかかり、クラスが準備に流れていくタイミングになりました。  この子は、すぐにお母さんの所に戻って、「ママが良い」というのです。 お母さんは、受け入れた後、集まりや外へ行くように促し、なかなか離れられないことからお母さんと一緒に散歩の用意をして、1階まで下りていきました。 そこで、靴を履いて上着を着せてもらうのですが、「ママがいい」といって離れようとしません。 

 

今日は、外に行きたくないのかな? というのが初めの印象でした。 そこで

「どうした?」「困っていることある?」と声を掛けました。  彼は何も言いませんでした。

次に 「なにがしたいの?助けてあげるよ」と伝えました。 すると 「絵が描きたい」というのです。

先生「そうか。絵が描きたかったのか。よし、そうしたら、何が必要かな?」ときくと

「紙と鉛筆と消しゴム」とのこと。。。先生「よし、じゃあ急いでそれを用意していこう」

~ここで、お母さんとはお別れしました。~ 

私は、外でも書けるようにバインダーを用意しました。 そして、それを彼と大人のリュックに入れて準備万端。

公園へ着くと、お絵描きタイム。そして、それが出来ると公園の中へ駆け出していくのでした。

 

☆園庭がない (話がそれますが、その時に感じた感想)

この事柄から考えたときに、園庭がなく、公園が遠いというのはこの保育園のデメリットである事を考えさせられるのです。園庭であれば、部屋の物を持ち出して、机を持っていって、もっと自由に絵を描く体験ができるでしょう。遊べる園庭がある事って良いなと思いながらも、この困難さを子どもと考えていく流れを大事にしたいと思うのです。

 

☆見えてきた子どもの姿

「ママがいい」というのには、理由がありました。このような、瞬間はたくさん生活をしているとあると思うのです。その理由は、聞いていかないとわかりません。そして、ここでこちら側が、わかろうとしてあげる事も大事なのでしょうが、重要なのは、自分で解決したリ、自分で選択したリ、この場面を自分の力で乗り越えていく事、この経験が重要であり、自律になるのだと思うのです。 子どもの声を聞こう という運動が活発になってきています。それは、自ら乗り越えていく力をつけていけるのだとこの事例からも感じるのです。  絵を描き終わって、その絵を見せに来て、そして駆け出していく背中の姿。とても、美しく大事にしたいと感じる瞬間でした。

入園見学者に説明する保育目標について

2022/12/15

子どもの姿から、よい保育を展開するというのは、どういうことなのだろう。1223日に締め切られる千代田区の令和5年度入園申込(第一次)を前に、園見学が続きます。その親御さんたちに「当園は3つのことを大切にしています」と、保育目標を解説しながら、本当によい保育って、どうすることなんだろう?と考え続けている園長(私)がいます。保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。もっとも高い目的は「共生と貢献」社会の創造です。

園で話し合ったり、実習生の記録にコメントを書いたりする時に、いつも保育とは?の「そもそも」のところに立ち返って考えます。経験的にきっとそうだろうと確信していることに立ち返るのです。それは園生活と遊びの中で、ということなのですが、ただその時に「世の中から期待されていること、つまり社会的に肯定されていくことを踏まえないと、幼児教育ではなくなってしまう」という意識が働きます。いつものように保育の質は、子どもの経験の質が大事だと考えるのですが、その時にやはりその経験が「子どもの育ちや学びに向かっているか」ということが欠かせないと考えます。自由遊び、ということでいいのですが、それをホイジンガやカイヨワなどの大人の遊び論で済ますことはできないのです。

すると、まずは子どもから世界へ向かっているか、ということが第一です。基本的信頼感の獲得でもいいのですが、もっと一般的にいうと、乳幼児が周りの物や事柄へ肯定的に対峙しているか、というか積極的に関心を寄せているか、ということです。子どもが問えば応えてくれたり、なんだろう?とか面白そう!とか、やってみたい!といった自発性が引き出されてくるような環境が用意されているか、子どもにとって活動が見えているか、子どもの方へ届いているか、といったことです。楽しそうだったり、真剣だったり、黙々とだったり、溌剌とだったり、反対にぼーっと眺めていたりということも含めて。一人ひとりの人権を基礎とした個人の尊厳に基づく「自分らしく」という姿になっているかどうか。子どもの姿で表す保育目標の1番目です。育ちの物語がきちんと個別にある、それが一人ひとりだということです。

その時に常に園生活では集団なので、個々の子どもがそれに向かって選べるようになっていないと、それを肯定的に取り込むことができません。世界との接点の持ち方が子どもによって異なるからです。そこで選択性ということが出てきます。選ぶのは子どもで、乳児からそれはできます。選ぶという言葉遣いが意外性を持つのなら、かかわり方が子どもによって異なるように、と言い換えてもいいです。どこにいるか、何で遊ぶか、誰のそばにいたいか、どっちを先にするか、あることをやっておわるタイミングも違っていいようにします。何をどれくらい誰と食べるのかも選べるようにしています。つまり、その体験がしっかりと充実したものにようになっているかどうかです。それが個別に違うのを許容する保育方法になっているかどうか、ということです。保育目標では「意欲的に」という、心情体験の中でも態度への架け橋となる心情です。

そして、園生活が集団であるというのは、社会生活があるということです。子ども同士のかかわり、共同生活が営まれています。複数の子どもたちが作り上げる生活の中で生まれてくる育ち、自立心と協同性の育ちを意識することになります。これが赤ちゃんの頃から心を通わせながら育っていくので、自分との関わり、物との関わり、身近な人との関わりが、生活と遊びの中で、子どもの中に取り込まれていくのでしょう。集団のありようが、個々の内面を作っていくのです。競争的排他的な集団だったらそうした社会的心理を個人が獲得してしまうのです。泣いている子どもにティッシュを持っていく子どもたちが周りにいるから、困っていたら「どうしたの?」という態度を見せてくれる幼児が育つのです。その姿を「思いやりのある子ども」と表現したのでした。

ホームページのブログによく登場する子どもたちの姿は、これら3つの要素が含まれていることが多いように思います。先生たちが好んで取り上げるエピソードでもあります。

安心し合える友だちの存在

2022/12/15

話は遡って、昨日。
午睡前、お友だちとの玩具の取り合いなどでいろいろ思うようにいかなくて、(きっと眠気もあって)、ふとしたきっかけで「あーーーん」と泣いてしまったさらちゃん。そして、涙ながらに「かほちゃんがいい〜〜」。
すると、かほちゃんがすぐにやってきて、頭をなでながら、「これ読んであげよっか?」と、持っていた図鑑を読み聞かせてあげていました。


かほちゃんの読み聞かせを眺めながら少しずつ気持ちを落ち着かせていく さらちゃんです。

すると、ほかのお友だちも集まってきて、みんなで輪になって読書。


ゆうかちゃんが、「グーチョキパーで♪グーチョキパーで♪なにつくろ〜♪」と歌い出すと、まおちゃんもそれに合わせて一緒に手遊び。

それが終わると、「『しろくまちゃんのほっとけーき』」と、絵本が始まりました。読み聞かせ前の手遊びまでしっかりやって、ゆうかちゃん、先生みたいですね😂

反対に、その日の朝は、かほちゃんがちょっとしたきっかけで「パパとママがいい〜〜」と泣いていると、ゆうかちゃんがやってきて、かほちゃんの目を見ながらやさしく「パパとママ、お仕事だよ」と言ってくれたり、さらちゃんが「いいこいいこがいい?いいこいいこする?」と頭をなでてなぐさめにきてくれたり…。
こんな風に、お友だちに手を差し伸べてくれたり、その子なりに慰めようとしてくれたりする関係を見ていると、こちらもあたたかい気持ちになります。
「いいこいいこがいい?」とまずは相手の気持ちを聞いてから関わろうとする姿も素敵ですね。

そして、ぐんぐんさんたちは、気持ちが崩れてしまったとき、どの子も「○○ちゃんがいいー」とお友だちを求めることも多いです。
ケンカもたくさんするけれど、ぐんぐんさん同士の関係の結びつきを感じる瞬間です。

わらす組のお友だちと過ごす時間

2022/12/15

今日はすいすい組からそうすけくんがお手伝いにきてくれました。

ぐんぐんさんたちのケンカも、大人にはできない空気感でふわっと止めてくれたり、笑わせてくれたり。

ちっちさんやぐんぐんさんも、「絵本を読んで」という風に持っていったり、一緒にそうすけくんが作る魅力的なブロックの作品を眺めて触ってみたり。
お兄さんの存在を近くに感じながら過ごしているようでした。


「お手伝い保育」ではない日も、わらす組からお友だちが遊びにくる日が増えています。そうやって遊びにくる子たちにとっても、ここがひとつの居場所であって、1階のフロアで小さなお友だちと過ごす時間で心がホッとしたり、小さいお友だちの力になれる喜びになったり(大人も助けられていますが) しているのかなと思います。

公園でもぐんぐんさんたちにやさしく関わって、一緒に遊んでいました。

(↑花びらを集めてきて、「ハートの形だね」と遊んでいます)

先日は、らんらん組のはなちゃんが、りょうくんを膝に乗せて、一緒に読書。


ふたりの関わりを邪魔しないように、こそっと後ろから撮らせてもらいました。
「もうすぐご飯だからねー」とりょうくんに話しかけるはなちゃんでした。

12月15日 昼食

2022/12/15

ロールパン

しめじスープ

鶏肉のコーンマヨネーズ焼き

コールスローサラダ

りんご

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