「みてて、ねえ、こうやって食べたら美味しいんだよ。お箸で食べるから、みてて」と、年長の女の子Sさんが私を呼び止めて見せたがります。そこまで言うならと、私は彼女の隣にしゃがんで「どれどれ、何よ、何が始まるのさ」と、みていると、お昼ご飯の白身魚のフライを白ごはんの上に乗せて、フォークとスプーンを突き刺してフライをほぐして、ご飯と混ぜ、どんぶりのようにして、お箸で食べられるところを見せてくれました。「ね!っ」と。
そうしたい経緯がよくわかるので、私は見ていて楽しいし、Sさんも満足そうです。この「瞬間芸」のようなことについて、彼女から伝わってくる印象は次のようなものです。お箸を巧みに使いこなせるようになったらしく、そのことを見てほしいという気持ちがあるのは間違いない。当園の昼食とおやつは、1ヶ月ごとに変わるのですが、同じメニューが2回でます。今日のは2回目なので、白身魚のフライの美味しい食べ方を、1回目の時に発見しているようなのです。
それをまたこれからやるから、それを知らない私に(周りのお友達は知っているだろうから)、伝えたくなったのでしょう。どうなるか、食べる前からわかっているので、「ほら、これからこうするから、見ててね」という、素晴らしい結果になることを予期しているからこそ、やる前から誇らしげに伝えてくる、ニヤニヤした感じの表情。その優越感さえ漂わせた、大袈裟にいうと勝ち誇ったかのような仕草で、自分が見出した発見の喜びを、ワクワクしながら見せびらかすことができる喜び。だから「今からやるんだから、ちゃんと見ててよ」なのです。
彼女と私の関係、よく知り合っている仲良しの関係でありながら、ルーティーンまでは知らない関係。知らないだろうことを教えたい、伝えたいから、私を選んだあたりはとっくに心の理論は通過しており、伝えて驚いてくれそうな他者がいるという、程よい関係の他者がいるという役割が私にあるんだな、と気付いたのでした。これは親子関係でも、起きてそうだけど、きっと「まあ、せっかくのフライが!」となりかねないかもしれません。