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2023年 8月

人を変えてしまう環境、孤島化する情報

2023/08/15

私の父はラバウル小唄をよく歌っていました。南十字星というのを知ったは、その歌からでした。ガダルカナル海戦やミッドウェー海戦の話もよく聞きました。海軍だったのです。飢えたとき、なんでも食べたといいます。「環境」は人をひどく変えます。戦時という状況は、人を逆らえなくさせてしまいます。非国民や卑怯者と言うレッテルを容赦なく突きつけられるからです。それに抵抗するのは想像を絶する、とんでもなく強靭な意志が必要でしょう。大抵の人は無理だと思います。

漫画「はだしのゲン」を中国語に訳した女性が、テレビに出ていました。その方のお父さんは先の戦争で、無辜の母子を機関銃であやめてしまったと晩年の手紙に悔やみ切れない思いを書き残していたそうです。漫画に出てくる反戦を貫く中岡元の父親の姿と比べてしまったといいます。何がちがったのかと。

私は自分の父親に、どうして戦争に行ったのかと聞いたことありません。そんなことは思いつきもしませんでした。徴兵令状を拒むなどと言う選択肢はありえない状況だったことが大前提になっているからです。戦争に行った父もその話を聞いている子どもの私も。過去の歴史についてと果てしない解釈論争に巻き込まれると、繰り返さないために必要な未来に向けた思考へのエネルギーと時間を奪われかねません。ただその論争は今も国際政治の力学として働き続けているわけですが。

毎年同じように繰り返されるニュースも、アハ体験の動画のように、少しずつ「環境」が変化しているのかもしれません。あるとき、びっくりするような変化に気づくように。現在進行形の異常気象と少子化のように。そして、ソーシャルメディアを覗くと「それ本当だったら大変なことだ」と思うような内容がてんこ盛りの状態なのですが、ほとんどが素通りされているように見えます。

発信する側も、受け取る側も、多様な意見や表現がおおらかに、冷静に語られる議論生成の環境の重要性にもっと気づいた方がよさそう。コミニュケーションの好みも多様化していますが、どうも没交渉的に棲み分けられていて、生産的な交じり合いが起きていないような気がしますが。

8月15日昼食

2023/08/15

ミートソースパスタ

きゅうりとだいこんのピクルス

シメジのスープ

ヨーグルト

麦茶

“やさしく やさしく”

2023/08/14

今朝のかわいらしいひとコマです。
ちっち組のりのちゃんが寝転んでいると ぐんぐん組のちはるちゃんがやってきました。

赤ちゃんのお人形を、りのちゃんに触らせてあげているようです。


気が付けば、わかちゃん(ちっち)や りょうくん(ぐんぐん)も一緒に、みんなでりのちゃんを囲みます。

りのちゃんが ちはるちゃんの髪の毛に手を伸ばすと… 「さわったー🎵」と嬉しそうな笑顔を向けて教えてくれました。

わざと顔を近付けて、触らせてあげたみたいです。
以前は、コロンと寝転んでじーっとしていた りのちゃんですが、今ではすっかり、こんなにも お友だちの顔を見ようと身体をねじったり、手を伸ばして触ってみようとしたりするようになりました。
そうして色んな反応が返ってきて、ぐんぐんさんたちも りのちゃんとの関わりが嬉しそうです。

りょうくんも、なんだかあやしているような眼差しや仕草で りのちゃんと関わろうとしています。
りのちゃんに触れてみるりょうくんに、ちはるちゃんが「やさしく、やさしく。いいこいいこだよ」と これまたやさしく話しかけていました。

ちはるちゃんが りのちゃんの耳に触れると、りょうくんもそっと耳に触れてみます。
「りのちゃんの おみみ、ちっちゃいね〜」「おみみ、ちっちゃーい」とふたりでお話して・・・


自分たちの耳にも触って、大きさを確かめています。かわいいです(笑)
最近は 大きい/小さい とか 多い/少ない の概念やその違いも気が付いたり興味を持ったりするようになってきているようです。

こんどはりのちゃんの 手 に触れてみます。

りょうくんが、ちはるちゃんに倣ってりのちゃんの手を握ろうとすると、ちはるちゃんがまた「やさしくっ(触ってね)」と教えてくれます。小さいお母さんのようです😂

それから ちはるちゃん、りょうくんの手と自分の手を合わせて

「りょうくんのおてて、大きいでしょ。」

つぎに、りのちゃんの手に触れて、

「りのちゃんのおてて、小さいでしょ。」

りのちゃん、ふたりの顔を交互にきょろきょろと見回し、かと思えば じっと見つめて…ちはるちゃんとりょうくんとの触れ合いを全身で感じているようでした。


すごいなあと思ったのは、りのちゃんに玩具を差し出した ちはるちゃんが、りのちゃんと視線を合わせて「いる?…いるっ?」と問いかけていた姿です。

一見、なんということもない場面にも思えるのですが、こんな小さなお友だちにも、しっかりと気持ちを聞きとろうとして やりとりしてみるその眼差しに、感動します。

りのちゃんはお返事こそまだしないものの、
“自分があげたいから” “自分がやってみたいから”という気持ちの前に、まず相手の意志を聞いてみようとする姿は、大人も子どもも関係なく、見習いたいところです。どんな小さな赤ちゃんも、しっかりと自分の意志を持っています。それを、こうして 子どもたち自身が身を持って示してくれているような気さえします。

りのちゃんには、一つひとつの言葉以上に、やさしく話しかけてもらったり 一緒にふれあってもらったりした あたたかな感覚が きっと伝わっているのではないかなぁ。。

同じくらいのお友だちとは自分の気持ちをぶつけ合ってケンカすることもあるぐんぐんさんたちですが(その姿もまた大切な育ちです!)、こうやって、小さなお友だちに触れて、そっと大切に やさしく関わろうとする姿を見ていると、それぞれの相手との関係性やふるまいを、自分たちなりに考えているんだろうなぁと感じます。頼もしいお兄さんお姉さんたちです。

これも職業病なのでしょうか^^;

2023/08/14

坪井です。

昨日、夢を見ました。

夢の中には、にこにこ組で長らく愛用され、何度も直しながらもボロボロになってしまい、

角も裂け、捨てようか迷っていたこの段ボールで作った電車が出てきました。

夢の中でも捨てようか迷っていましたが、

すずらんテープを巻いて補強する作戦を思いついて、

補強が終わったところで目が覚めました。

さっそく今日の保育中に、夢で見た通りに補強してみたところ、大成功!

乗っても引っ張っても壊れなくなりました!

以前テレビで千原ジュニアさんが、大喜利をする夢を時々見るとおっしゃっていましたが、

やはり自分の職業のことは夢でも考えてしまうものなのかも知れませんね^^;

思考や心情の過程にブラックボックスができる気持ち悪さ

2023/08/13

ご先祖様に、手を合わせながら、こんなことを考えてしまいました。

どんな仕掛けでそうなるのか、もはやわからない物だらけなので、こんな話をしても「何を今さら」と言われかねないのですが、でもできるだけ私は自分が自分で考えて結論を出したという「理路」だけは、できるだけはっきりさせておきたいと思っています。でないと、自分が言ったことに責任を持てないからです。と言ったところで大した責任は持っていないんですけどね。

何のことかというと、生成AIのことです。よく使いこなしている人は、これから言うことは、「卒業」しているのかもしれませんが、私はまだちゃんと入門もしていないので、こんなことを考えてしまします。私は自分ができるだけ自由でありたいと思っているのですが、自分で考えていることくらい、自分で意識してやっていると思いたい、と言うのも、そう思えないと自分が自由である気がしないからです。特にアートと保育の関係、子ども理解と保育者の関係などで。

生成AIが辞書や辞典だったらいいのですが、なぜそういう表現になったのかのプロセスが「見えない」場合や、表現自体をうむプロセスそのものに、価値がある創造的行為があるときは、あれを遠ざけるのではないか、というか使いたくないというか、使えないだろうと思うのです。

例えば、詩や俳句、和歌など特に個人の心情を表すものは、その生み出されていく過程がたまらなく楽しいからです。どんな言葉や表現にしようかと呻吟しているあの時間。そしてこれはどうか!と内から「湧き起こってくる言葉」のあの過程。そこに他者が割り込んでくることは考えられない。と言うか、そうなったらもう自分のものじゃない、という感覚があります。

たとえば男女の問答である和歌や返歌の間に生成AIが入ってくるなんて言う事は考えられない。あくまでも例えですけれど。

なぜなら、別に正解があるわけでも、評価されることを前提にその眼差しに合わせるわけでもないから、自分と世界の関係を表す唯一の、生きている時間がそこにあるわけです。

私が生成AIを自分の分身と思えるのなら、辛うじて共作者として認めてあげてもいいが、それはもはや私の表現ではないでしょう。あるいは優秀な助手というか、出しゃばらないアシスタントぐらいの感じでいてくれるのなら、許せるのかもしれません。作品自体を問題にするなら、それは結構です。坂本龍一らしいこんな曲を作れと指示して出てくる曲もあるでしょう。ピカソのこれこれとか、まあありうる話なのかもしれません。

それと同じように子どもの姿のデータから、環境の再構成案も出てくるようにのでしょう。そうなったら保育士の役割はどうなるのか。そこで思うのは先ほどの「自分と世界との唯一無二の関係を生きる」ことの意味です。子どもと保育者が暗黙にも公然にも交わす気持ちの、それぞれの「かけがえのなさ」を、保育の中でどう価値づけしておくか。それはどんな他者にも置き換えることのできない保育のプロセスの質だと、言い切れるようにしておくことは可能かどうか。

私は可能だと思います。だから生成AIがどんなに保育に入ってきても、内面の気持ちや心情は置き換えることができないのですから、そこを大切に守るためにサポートする道具になってくれたらと思います。でも、ある種の効率性が待ってくれないで割り込んでくる可能性はあります。出しゃばらないアシスタントでいてくれるかどうか。それに負けない人間性や内面が問われるのかもしれません。つまり、心。

 

戦争を回避する戦略へ

2023/08/12

私は長崎で生まれ育ったので小学校は8月9日は登校日でした。ウランと併せてプルトニウムのことも調べたことがあります。毎年8月15日が近くなると第二次世界大戦のことが話題になります。アフリカのウラン鉱をドイツも入手していたことを知ったアメリカがマンハッタン計画を急ぐことになるわけですが、その裏舞台の一面、ウランの採掘会社が残した膨大な記録に基づくドキュメンタリーを興味深くみました。78年経っても、まだ知られていなかったことが出てきます。

こういうのを見ると、戦争は台風が発生する仕組みに似ていると思います。発生しやすい条件があるのです。一旦発生してしまったら、その台風の目に向かって、あらゆるものが吸い込まれていきます。ウランの採掘会社のアメリカへの売り込みも「まさか原爆に」となるとは思っていなかったようです。とにかく、始まらないようにしなければなりません。

人類の進化の過程のどこかで、協力してやっていくことを覚えたのに、こうも「戦争」がやまないのは矛盾にみえます。主要因はやはり人間性よりも「仕組み」や「環境」のほうでしょうか。たとえばナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスについて、その秘書は「彼は普通の人だった」と言う証言をしています(映画もありますが)。戦争の構造や特性があり、再現させない方法があるはずなのです。

また失敗の科学からみると戦争が起きるととを「失敗」とは捉えてないように見えます。戦争を起こさないことを成功とするなら、その成立要因を少なくしていくこと、無効化していくための戦略とPDCAが弱いかもしれません。資源も経済的な格差も要因です。EUはその反省から生まれたのですが、日本はせめて東アジアに信頼されるエリアを作り出す役割があっただろうに、とジャック・アタリは悔やんでいます。

現実は抑止論を軸としたもの。攻めてくるやつがいる限り守る必要がある。力が均衡するから抑制されるという意外と単純な構造です。でも相手のいることですから、一国の話では無理です。これを相手の利害動機を相互に第3項へ止揚させる仕組みができないだろうか。それは壮大な国益の無駄だと悟る仕組みが。国連の力を構造的にもっと強化するべきなのでしょうが、それも至難の業でしょう。そこに繋がる具体的な戦略がもっと提案されてもいいだろうけれど。

山と人生

2023/08/11

山のことを考えていたら、なんとなく「人生の目的」について書きたいなってしまった。なんて野暮なことを。どこにそんな親和性があるのか知らないが、どうも山の彼方ではないが、その山の向かうとか、山河とか人生を投影させたくなるものが山なんでしょう。

誰もそんなことを考えるのが「山の日」でもなんでもないのでしょうが、考えさせておいて、眺めてみても登ってみても答えなんかないことを、思わせぶりにそれとなく気にさせているのが「山」というのもなんでしょう。いつ頃からだろう。そんなことで悩むようになったのは。悩むことと、考えることは違うのに、そこも混同させてしまうあたりに、山のもつ悩ましい変幻性が潜むのですね。

人生に所与の目的なんてなりありません。そうはっきりわかってから、本当に自由に生きようと思えるようになるわけですが、意味もないとまではいいませんが、ただそれも突き詰めれば虚構だと心得ておいた方がいいでしょう。だからこそ愛や探究が人生を超えた意味を創造する逆説的な面白さが展開されているでしょう。それにしても、なんとややこしい人生でしょう。時々はまんざらでもないとは思いますがね。

でも宇宙は完全な無でもよかったものを、なぜか存在してしまった。そこに意図や目的がありようがない。不思議でしょうがないが、そこに過剰な意味を押し付け合うのだけは、ごめん被りたいものです。存在してしまった者同士、せめてお互いに傷つけあったりすることなく、助けあってやっていきたいものです。

子ども集団の多様性を就学後へのつなぐには

2023/08/10

研修会で考えたことの続きです。就学前と就学後では「子ども文化」がどう変容するのだろう? この夏休みになると卒園児がボランティアに来ています。今週も数人が活動しています。子どもへのかかわりがとても上手です。それこそ見守り上手、援助上手といっていいでしょう。

それと併せて、月曜のGTサミットで語られた、卒園児の保護者である渡邊さんの話も思い出します。「小学校入りたての頃は学校の先生がたは、色々な意見を言うので面倒な子たちだと思っていたみたいですが(笑)、少し経つと言わなくても自分たちで考えてやっていく子どもたちだと見方が変わっていくんです」。

ギビングツリーのメンバーはデュディス・リッチ・ハリスの考えも学んできました。彼女がいう意味で、私たちは子ども集団は、子どもの社会化の主たる要因だと考えているのですが、そこを大事にしたときに、卒園後に学校に適応できる場合と、そうでない場合があるのはどうしてでしょうか。子ども文化の多様性が失われてきている可能性はないでしょうか?というのも、次のようなことが考えられないかと思うからです。

子どもが主役というときに(こども家庭庁は、それを「こども真ん中社会」と呼んでいますが)、就学前と就学後にはある種の多様性の幅が変わってしまうのかもしれません。園生活は子ども集団の中で、誰もが主役になれるような価値の多様性、優劣の多様性が異年齢生活のなかにはあるような気がします。

子どもは、だれもがその関係を嗅ぎ分けて、その関係のなかで自分らしさを発揮できること、見つけること、選ぶことができるようにしています。興味や関心が赴く先や、安心していられる居場所がそれぞれに選べるのからです。いわば生活空間がオープンであり、安心できたり、物事を探求したりできる空間と友達関係が開かれている、という言い方ができることかもしれません。

それに対して、学年やクラス、学習内容や学習方法の枠組や方向性がある程度はっきりしている学校の空間のなかでは、子どもによってはそこに馴染めにくい要素があるのかもしれません。その要素の一つは子ども集団のなかに、その子の主体性を発揮できる関係の多様性があるか、といった視点で見ることができるかもしれません。たしかに勉強を中心に秩序づけられている生活に比べて、もしかすると人間関係や子ども文化といったことが、狭くなるのかもしれません。

園生活には子どもの間だけで通じ合う表現や自慢の遊び方があったり、誰にも負けないゲーム、今度こそ食事の配膳で自分が一番に並ぼうと思えばそうできる見通し、悪ふざけができる空間、一人でぼんやりと外を眺めていられる場所、多少羽目を外しても許される空気、甘えを肯定的に受け入れてもらえる先生の存在。そうした子どもなりの戦略や子どもたちがつくり出す習慣や隠し事なども、許容されているという面があるのでしょう。

園児たちは自分と同じくらいか、ちょっと歳がうえで自分にはできなそうな、でも魅力的と思えるものをどんどん模倣して自分のものにしていきます。その影響力は大きく、親も先生も教えていないし身の覚えのないことも、子どもがやっていることから学んでいることが結構あります。たとえば昨日の1歳児クラスのブログには2歳児クラスで遊んでいる3人の様子が描かれていますね。3歳のお兄さんがマグネットでつながる電車をつなぎかたを見せてあげているのをみて、別の1歳児もレール遊びに加わっていく様子が描かれています。

また幼児のブログにはこんなことが書かれています。

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今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組(3歳児)のKくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組(4歳児)のMくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
Kくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

Mくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

Kくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。

ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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こういうことは小学校でももう少し「あり」だと思うのです。学童では実際にあるでしょう。子ども集団のもつ力ということを考えてしまいます。

 

ぼくが読んであげる

2023/08/10

今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組のかえでくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組のまつるくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
かえでくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

まつるくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

かえでくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。



ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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