子どもは当然のごとく「うそっこ」が好きなのです。嘘っこ、というくらいですから、本当に対する嘘、なのですが、それは子どもたちにとって空気のように遊びの中で展開されています。何かしらの「本当」について、それを虚構として再現しています。だから「うそっこ」と自覚しています。その「つもり」なのです。
その再現性は、本当らしくすることを目指しているわけではありません。芸術で言えば、自然主義的リアリズムを求めて試行錯誤しているのではありません。私に言わせると、まるで劇画的であり、時にバロック的だったりします。ままごと遊びや電車遊びなど、そのらしさにハマって没頭してる時もあれば、そこから気まぐれに展開していくことを面白がっている時もあります。つまり再現されている生活や出来事そのままであるというよりも、アレンジが加わり、やっている本人が面白いと思う何かに従って展開しています。
例えば、ただのおいしい料理ではなく、手元にそれらしいものがないなら、それは構わずびっくりするような食材が入り込んだり、風邪をひいて手術をしたら死んでしまって、でも「大丈夫!お薬があるから」と、特効薬で生き返ったりします。時間と空間を自由に行き来する能舞台のように思えなくもありません。
「うそっこ」が、好きなのは大人も同じです。ギリシャ時代からわざわざ劇場を作ってきました。人間に普遍的なテーマは時代を超えて、昔からあった物語を、表現の形式を変えながら現在まで受け継がれてきています。
室町時代にできた能は、今も根強い人気がありますが、それらを例えば三島由紀夫は「そのまま現代に生かすためにシチュエーションのほうを現代化」(「近代能楽集)あとがき)して、8つの曲を創作しています。ドナルド・キーンによると昭和27年に上演された三島の「卒塔婆小町」(世阿弥が原作)は、三島の他の作品と深い関係がある「美と愛と死」がテーマであり、成功を収めたそうです。
実はその戯曲が、9月1から今日3日まで「山中湖国際演劇祭」として、ダンスと演劇で表現されました。場所は富士山を借景に設られた山中湖交流プラザの屋外劇場です。現代の夢幻を舞ったのは、クラシックバレエのトップダンサー、中村祥子と池本祥真の両氏。俳優として演劇キャストの宮川雅彦氏も熱演しました。そして、この演出と振り付けが、青木尚哉さんです。普遍的なテーマが時代を超えて、表現形式は変わっても、私たちに感動をもたらし続けているのです。
さて、こんなことを思いました。三島が数百もある謡曲を渉猟し、その中から「現代化に適するもの」は、結果的に8つしかなかったことになります。それと比較してもしょうがないのですが、子どもの「うそっこ」は、どのように子どもに選ばれているのでしょうか?
絵本などの物語の登場人物、戦いごっこ、怪獣、食事をめぐるあれこれ、乗り物、お店屋さん、買い物、お医者さん・・生活に身近なもので面白いと思うものが選ばれているわけですが、そこにどんな意味があるのか勉強中です。いろいろなことが培われていく経験になっているのは間違いないのですが。
劇遊びやごっこ遊びを発展させていく時に、子どもの即興性を大事にしたいと感じます。子どもたちの「うそっこ」の面白がり方を、じっくり鑑賞してみたくなりました。