MENU CLOSE
TEL

2024年 1月

進級へ向けた「移行保育」について

2024/01/18

保育ドキュメンテーションをご覧いただくとお分かりのように、時々、ちっちさん(0歳児クラス)が他の幼児クラスで遊んだり、ぐんぐんさん(1歳)がにこにこ(2歳児クラス)の部屋で遊んでいる様子を描かれています。子どもたちは発達にちょうどあった環境でよく遊んでいるように見えます。

これまでも、園内全体をどこで過ごしてもいいオープンな環境に近づけようとしてきたわけですが、子どもたちは慣れた環境が落ち着くという要素Aと、新しい環境へ好奇心を発揮するという要素Bとが、あるリズムを伴って繰り返されていくので、それを年間のデイリーや週案の中に想定していくことができます。だんだんAが大きくなったり「濃厚」になったり、反対にBが活発になっていってだんだんAのような性格に移行していったり・・。

では今から4月までの3ヶ月間はどうなるのでしょう。「進級」という見方を視野に入れてみます。年長さんにとっては「就学」です。この時期になると、一つ上のクラスの環境が子どもたちの発達にあってきたことが子どもの姿からよくわかります。ゾーン設定の環境がある保育園は特にそこから感じることができます。例えば絵本の種類、図鑑の程度、制作物の技巧性、パズルのピースの数、ゲームの難易度、運動空間に置かれているもの、といった変化です。当園の場合は、3階建てなので、新しいクラスの場所への変化が最も大きいのは、1階の1歳から2歳の2階への変化と、2階の2歳から3階の3歳への変化です。そこで遊び、食事、睡眠の移行を計画的に進めることになります。

もちろん、こうやって目にみえる環境だけではなく、そのほかの要素も当然変わっていきます。遊びが始まるきっかけに着目してみると、それまで経験してきた子どもの抱いているやりたいことのイメージや広がりも違ってきますし、共通に経験してきたこと(わらべうた、歌、ダンス、鬼ごっこ、行事など)がきっかけで始まる遊びも高度になっていきます。自然や季節の変化、生き物などの変化からも、子どもの活動は変わってきます。そして先生の意識。

すでに何度も探索した経験のある、その場所へ行くと目新しいゾーン環境の中から、自分の興味ある空間や物にあたかも「引き寄せられるかように」入っていって、ものに触り、ものを手に取り、関わり始めます。要素Aよりも要素Bの要素が増えていきます。この時期のそれを「移行保育」と呼ぶこともあるのですが、発達は徐々に成し遂げられていくので、この時期だけ急に成長しているわけでないことから、「一年中が移行保育」という言い方をするときもあります。

その様子を見ていると、子どもたちはそれらが「どうやったらどうなる」という面白さや意味に気づき、面白い関わり方を見つけて行きます。それが「遊び」と私たちが呼んでいる姿ですが、見ていて面白いのは、それまでの自分の経験が、見立て遊びや、ごっこ遊びの中で再現され、自分の気の向くまま、あるいは気が済むように、あるいはお友達のやっていることに触発されてアレンジされていく、そのプロセスです。自分で自分を制御していくフィードバック的な要素がだんだん獲得されていく自立や自由度が、幼児後半の顔つきの余裕となっているようにも見えてきて、嬉しくなってきます。

 

千代田区の保幼小合同研修会

2024/01/17

千代田区の教育委員会は本日午後、番町小学校と番町幼稚園を会場にして、それぞれの研究実践の公開保育と、それに基づくグループ討議をメインとした「保幼小合同研修会」を開きました。テーマは「幼児期の学びとその学びを生かした小学校での学び〜3つの資質・能力、幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿を視点とした円滑な接続」です。講評を兼ねた講演は河邊貴子(聖心女子大学現代教養学部教育学科教授)先生でした。幼稚園の指導案(4歳と5歳)にはそれぞれの小学校1年生での教科のこの辺りの単元などに主につながるだろうという示唆になる矢印や欄が設けられており、小学校の指導案には、4歳児や5歳児の時の10の姿から捉えた経験や活動の具体例が例示されています。

公開された4歳児クラス(さくら組)の遊びは、獅子舞ごっこ、餅つきごっこ、制作コーナー、ポップコーンごっこ。玄関にはティッシュボックスで作った獅子頭を抱えた子が3人、私の頭を噛んでくれ「おひねりください」というので、口の中に入れてあげました。おもちをついて振る舞ったり、獅子を製作している子がいたりと、正月に実際に経験したことが再現遊びとなっているようです。5歳児クラス(うめ組)は遊園地ごっこ「ゆめランド」。複数人のグループごとに、鬼遊びや鉄棒、的当てなどの遊びを考え、異年齢児や保護者を招待するもの。このような公開保育は楽しいものです。 

これらの遊びや活動を見ていると、獅子舞のお出迎えというおもてなしに喜んでいる見学者たちの反応を、その子達も感じていたはずで、言葉での伝え合いの経験の幅も広がっていく体験になっていたでしょう。獅子舞や餅を振る舞ったり、棚に並んでいる制作物を見ると、その子なりに感じていることの表現の中に、旺盛な好奇心を感じます。子どもの能動性や自立、協同性、言葉での伝え合いなど、10の姿の要素がたくさん混ざっていることがわかります。

小学校の公開授業(1年生)は国語と算数でした。国語は述語の「いる」と「ある」の使い分けを学ぶことがねらいで、〜の中に「いる」か「ある」か、班で「がようしの中にはうしがいる」のようなクイズを作って楽しみます。言葉遊びの面白さを楽しみながら、友達の書いたものについて「クイズになってない!」と笑ったりして言い合う姿の中に、生き物はいる、ものはある、と使い分けていることや、〜の中にを使った言葉選びの思考が働いていたように思います。

算数は四角い画用紙の「どちらがひろい」かという課題を自分なりの探究方法を見つけ出すというもの。黄色と緑の長方形の画用紙で比べます。さかねて折ってみて、まみ出した部分の大きさを見比べたり、さらにはみ出した部分を定規で何センチと測ったりする子が発表していました。思いついた方法をノートに書き、それを電子黒板に投影してもらい、みんなに見てもらいながら説明します。国語はグループでの話し合いがありましたが、算数はそれぞれの方略探求の後での共有が混ざっていました。

見ていて面白かったのは、最初に机に出ていたツールは、各自が持っている筆箱だけで、鉛筆や定規やけしごむは机に出ていたのですが、そのほかのものは机の引き出しに入ったままです。先生が「何かの何個分」という話をして、消しゴムを使ってみせ、そのあとで、引き出しにしまってあった「グロック」を出させて画用紙の上に並べて数を数えるという方法へ話がつながっていきました。

私が授業を見ていてとても強い印象を受けたのは、数人の子が前の授業に「あった、あった」と思い出して嬉しそうに、弾けるような笑顔を見せた瞬間があったのです。先生は何かの何個分、という「単位あたりの数」という概念を子どもたちに気づいてもらいたいと思ったからでしょう、考えを発表し合っても出て欲しかった方法へ、消しゴムを使った方法から、「もっと何か小さいものないかなあ」とヒントを出してみたのですが、ブロックを使えばいいというところへ結びついた子がいなかったのです。あるのは「長さじゃなくて(広さでも)いいんだ!」みたいなことを呟いた子がいました。ここに架ければならない幼児教育との架け橋があるのかもしれない、と思ったからです。

よし、保育園ではいろんなものを単位にしていろんなものを「何個分」という遊びをいっぱいやっておこう。そう思いました。それが数と文字を使った記号操作が増えていく学びへの大事なアナログ遊びのポイントの一つなのでしょう。

GTリーダー研修 二日目

2024/01/16

昨日から始まったGTリーダー研修は、今日は3つのテーマについてのグループディスカッションです。コロナ禍で中止になっていた夕方の情報交換会にもほとんどの方が参加したので、お互いの自己紹介なども終わっており、今日は朝から和気あいあいの雰囲気のなかで会が始まる前から話し込む姿がみられました。

最初に3つの法人から実践報告がありました。一つは最近急速に導入が進んでいるICTツールが、業務省力だけではなく「研修内容の共有」や「保育を語り合う場づくり」に役立っており「保育の質を高める取り組み」の手ごたえを実感しているという事例。

二つ目は、4つの子ども園・保育園を運営している社会福祉法人がこれまで取り組んできた園内研修の変遷を紹介。法人研修や合同アクティビティの積み重ねを通じて、法人内の職員がつながりあい、協力して教材や保育方法を創り出すようになっていました。

三つ目は、異なる3つの法人がお互いの園を見学しあい、合同研修会を繰り返しています。公開保育を通して、保育の気づきの変化と深まりが報告されました。

その後、いよいよ今回のリーダー研修のメインとなる「グループディスカッション」に入りました。70人が7人ずつ10のグループに分かれて、3つのテーマについて、それぞれ45分ずつ討議し、報告しあいました。テーマは「リーダーの在り方~動かすこと・促進すること・育てること・・」「理念の浸透~子どもの人権・子ども観・主体性との関係から」「チームとしての働き方」の3つです。それぞれについて「今はどうなっているのか。何を大切にしているか?(現状)」「よりよくする要素はあるか?あるならどうしたらいいか?(課題)」「大事なことは何かをグループでまとめて発表してもらう」という流れで話し合ってもらいました。

グループからの報告をうけて、テーマをめぐり次のようなことが語られました。役職による階層とリーダーシップの違い、ベテランの発言や言動の重みを自覚した話し方や伝え方の工夫、若手のやりたいことを実現できるように支えるベテランの役割、「あなたがそれをやるなら私はこれをやる」という補い合うチームプレー、同僚性が高まる信頼と対話の在り方、保護者に子どもの姿や育ちを通して伝える保護者会や行事の役割、個別最適な学びと対話を深める保育などについて。

GTリーダー研修

2024/01/15

保育を考えるときのキーコンセプトとはなんでしょう? 今日は1日中そういうことを考える日になりました。保育に関する研究グループ「保育環境研究所ギビングツリー(GT)」(藤森平司代表)が主催するリーダー研修が今日から明日までの二日間の日程で開かれました。

今日は午前中に保育園の見学受け入れ。午後から高田馬場のセミナー会場で座学研修です。千代田せいが保育園の保育は広い意味で、「見守る保育 藤森メソッド」の実践モデル園になります。

ただ保育と言うのは、何かの1つのメソッドで統一されると言う事はなく、いろいろな考えや方法が実践の場には持ち込まれているのが普通です。私の経験からすると、何々保育という名前が付いていたとしても、保育や教育の営みと言うのは、常にそこと交わったり、はみ出たり、シンクロしたり逸脱したりしているものです。そうでなければ、そもそも民主主義国家における教育とは言えないのではないでしょうか。

こういう考え方を大前提とした上で、より良い保育のために必要な概念や方法を研究しようと言うわけです。そこで今日の研修は全国から70人リーダーが決まりました。まずは子どもの人権とは何か、子ども観はどのように歴史的に変化してきたのか、子ども主体とはどういうことか、この3つについて考える1日となりました。

私は子ども観の歴史的変遷と、現代の「子ども観」の代表的な考え方を紹介しました。子ども観は、発達観や人権観、そして実践の中での「子とも理解」と密接なつながりがあります。マクロな視点で、その変化やつながり具合を外観しました。

 

 

座談会「小学校ってどんなところ?」

2024/01/14

保育園の保護者コミュニティ「しずくの会」が、保育園と共催で今日、座談会「小学校ってどんなところ?」を開きました。すでに小学校に通っている方々も参加していただき、学校説明会で配られた資料などをみながら、生活リズムがどう変わっていくのか、どんなことを準備しておくといいのか、時間割や宿題のこと、また給食の様子や学童のしくみなども情報交換しました。

おなじ公立小学校でも、時間割が違っていたり、年間の保護者会の回数の違っていたりなど、学校によって特色があって、知らないことが結構あることに気づく有意義な時間になりました。

また会の後半は、国が目指している教育の在り方について、文科省の動画「生きる力、学びのその先へ」や日本PTA全国協議会による動画「令和の日本型学校教育」を観たり、「個別最適な学びと協働的学び」の事例を知るために、名古屋市が始める教育改革の事例として「名古屋市立山吹小学校」の動画を観ました。

小学校生活が始まって、自分の子どもの様子や言動についての報告もありました。なかには「こんな小さい時から、これでいいのかなぁ」と疑問や不安を感じることもあるようです。保育園の時期に考えておかないといけない保育内容への示唆も受けました。

会が終わってからも、話したりないことがたくさん出てきたりして、あっという間の2時間でした。近隣の学校とこれからの学校の行方を考える時間になり、また続けていくことになりました。

保育園で晩御飯を食べて帰ろう

2024/01/12

今日は保護者コミュニティ「しずくの会」との共催で、夕方のレストランを開きました。約30家庭の親子に晩御飯を食べてもらいました。メニューは主食が台湾の丼ルーローハン、副菜は中華サラダ(野菜のナムル)かコールスローの選択、それと中華スープとデザートに果物(ミカンかバナナ)です。ふだんの給食の献立のなかで子どもたち人気のあったものから選びました。

この試み、開園して5年が終わろうとしていますが、やっと実現しました。これまでコロナ禍もあったため、給食の試食会もままならなかったのですが、毎日こどもたちが食べている保育園の味を家族て味わってもらう機会にもなりました。保育園の家庭にとってワークライフバランスの工夫は、当事者でないとわからない苦労というものがあります。

とくにお母さん(あるいはお父さん)だけが専ら食事をつくる家事分担になっているとき、毎日朝夕の献立を考えて買い物や料理をすることは、並大抵のことではないことが多いでしょう。なにも考えなくてもいい日がある、というだけでもちょっとした開放感を感じるかもしれません。保育園でたまに晩御飯を食べて帰ることができれば、お風呂に入ってあとは寝るだけ。親子で過ごす時間がゆっくりとれたりするといいですよね。

調理担当の栄養士たちも「美味しいといってお代わりに来てくれてうれしかった」とのこと。当園の職員には本当に頭が下がります。今回は全部保育園で用意してみましたが、別の形と組み合わせながら、継続的にできるスタイルをみつけていきたいと思います。参加された方にはアンケートをネットでお願いしましたが、どうぞよろしくお願いします。

除夜の鐘と松の内~仏と神の習合

2024/01/11

今日は保育園で鏡開きをしました。こどもに「鏡開きって何?」と聞かれるので、神様にお供えしたお餅をみんなで、分けて食べることだよ。お餅を割るってことなんだけどね。ここでいう神様とは、トイレの神様と同じで、「八百万の神」を受け入れる感覚が風習であったように、ご先祖様が仏様であり神様であるような存在としてある何かです。神棚と仏壇が同じ部屋にあっても何も違和感のないような形で、私たちの風習のなかに溶け込んでしまっているものでしょう。

いってみれば、日本的な宗教的な営みは、条件としての信念や信仰はなくても、謂れや習慣で成立しているように見えます。それが宗教的な営みだという自覚すら必要としないほど、それとして受け入れてしまうあたりが神仏習合を成し遂げてきた日本文化の本質のような気がします。つまり日本的営みは儒教的な生活信条(クレド)も、「八百万の神」も、仏教的無常観も画然とした境界をもたないあいまいな連続体として成立しているように思えます。

保育園や学校の公教育のなかに特定の宗教を持ち込まないというルールを思うとき、千代田区区報に「正月は神様を迎える行事」という説明が書かれていても、そのルールに抵触することにはならないでしょう。なぜなら、たとえば他の宗教から「区報の新年一号に神道の説明をしていいのか」という問い合わせがあったとしても、たぶん「あれは風習や謂れの説明であって、特定の宗教をとりあげているつもりはありません」と答えるだろうと想像できるからです。

紙面の構成にもあのあたりの苦心がのぞきます。全体のタイトルは「正月小話」として構成されているのです。

同様に「大晦日小話」があるなら、除夜の鐘の謂れや習慣の説明ができ、決して仏教を取り上げているのではないということになるのかもしれません。それにしても一年を振り返るときは、つまり終点に極まるときはお寺で仏と出会い、始点に立つときは神社で旅立ちを清めてもらうという使い分けの機微に、日本的な心の動きの洗練さを感じるのですが、いかがでしょうか?

・・これぞ春の七草

2024/01/05

 

「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すすな すずしろ これぞ七草」。

こういうものは、周りの大人がただ何度も唱えているうちに、子どもは覚えてしまうものです。別に子どもに覚えさせたくて大人が唱えるわけでもないのですが、実際は「こっちがスズシロじゃないの、いわゆるカブの丸いのがスズナでしょ」みたいなことを言い合いながら、お盆に7つの草を並べて、展示して、子どもたちに見せました。

今日は「七草がゆ」だったんです。3時におやつにしました。ちょっと塩気のあるビスケットとセットで。保育園のおやつというのは、正式には「間食」ですから、お菓子ではなくて、おにぎりやパンや麺などの時もあります。

ただ、こうやって七草がゆの話をしているのは、お代わりを何人もするほど大人気だったからです。昨年までの「七草がゆ」は、あまり人気がなくて、残っていたのです。しかし今回は完食でした。

どうしてこうも違ったのかというと、お粥ではなくて、さらりとしたお茶漬けのようにしてみたからです。炊き込んだお粥の場合は、かみごたえがなくべっとりとして、幼児には不人気でした。(でも乳児には離乳食のようなものだからでしょうか、よく食べています。)どうも幼児になると、かみごたえのある食べ物の方が人気なようです。

そこで、カツオと昆布からとった出汁のカニ玉スープに、七草が入ります。このスープを、軟らか目に炊いたごはんにかけて食べるのです。野菜が苦手だという子も「美味しい」と食べていたので、びっくりです。何人もお代わりをしていました。ぜひ、ご家庭でもお試しあれ。

今年も子ども同士の関係を大切に

2024/01/04

<午睡の際、Aくんが布団にブロックを持っていき遊んでしまっている姿が年明け多くあったことから、時間をきめブロックで遊んでから何も持たず布団に戻るという方法を取った。遊び初めは布団に持っていきたいと言っていたが、何度か説明すると、その場で遊び始め、アラームが鳴ると片付けをして布団に戻ることができていた。Sちゃんが一緒だったことで、切り替えができていたのかと感じる。今後もブロックで遊びたいといった際には、続けていきたい。>

この今日の2歳児クラス(にこにこ組)の日誌(振り返り)を読んでいて、子ども同士の関係の発達について、大切な一面を思い出します。それは子ども同士のつながりが、心の拠り所やエネルギーの補給基地の役割になっているように感じることが多いという話です。
そのことを、この記録を書いた担任に伝えると「そうなんです。子どもが親子の愛着関係と似たような関係に感じることがあります。例えば、Kさんが何かで泣くようなことがあると、ほぼ同じ月齢の「Yちゃんに話を聞いて欲しかった」と言って泣くことありました。Yさんはちょっと大人びた雰囲気を持っているところがあり、Kさんにとっての心の拠り所のようになっているというのです。
子ども同士の関係が育っていくというのは、このように子ども同士の中に、お互いに楽しくなったり、過ごしやすくなったりする関わり方を紡ぎあっているような側面があるのです。
このことは、広い意味での協同性です。何かの目的に向かってそれぞれが役割を持って力を合わせていくようようなものとは違います。担任は「本当によくわかっているなあ」と思うことが強くあるそうで、そういう子どもたちの持っている素晴らしさに気づくと、「子どもをよく見ようと思うし、ちょっと引いた場所で見守ろうと思うようになります」と言っています。

園だより 1月号 巻頭言「その時々を大事に刻みながら自立心と協同性を育みたい」

2024/01/04

(園だより1月号巻頭言より)

「自分の意思をしっかりともち、自分の気持ちをはっきりと伝える姿がさらに増えてきた。もっと遊びたい・今はやりたくないなど、言葉や仕草で表現することが一段と増え、いやいやも出てきているが、子どもとの対話を大切にして、思いを受け止めながら大人の思いも伝え、一番いい方法を考えたり、折り合いをつけていけるように関わっていきたい。」

これは12月の保育会議で報告されたちっち組(0歳児)の、最近の子どもの姿です。ここに見られるように、乳児の自立性と社会性・共感性がこの時期から大きな経験になっていることがわかります。自分を主張することと、他者との関係の中でその折り合いを見出していくこと。

子どもの主体と大人の主体の間に、相互の共感性を基軸にしながら、自分の気持ちや思いを伝えて受け止めてもらいながらも、その一方でお友達や先生から抑制や我慢を求めれることに対して、自分でその先をどうするか、自分自身をコントロールしていく実行機能の働きが育つような経験の積み重ねが起きています。

ここに自立心と協同性の根っこの部分が経験されていっている、と言っていいのだろうと思います。そのプロセスがどうなっているのか、さらに分析的に分け入ってみることもできます。その時に、赤ちゃんを「有能な赤ちゃん」とみるとしたら、どのあたりがそうだと思えばいいのでしょうか? ちっち組と言っても、もうこの12月末の時期の0歳児クラスは、最も月齢の低い子どもでも、当園の場合は2月生まれのRちゃんが10ヶ月です。ちょうど、9ヶ月革命が起きている時期です。

一方で、高月齢の5月生まれの男子が2人いて、彼らは1歳7ヶ月(19ヶ月)です。1歳半を過ぎれば、他者の意図を察した上での模倣、つまり他者の目的意識を理解した上で、他者がやっていることを自分もやろうとしています。お友達や大人がやっていることをそのまま真似することもありますが、どんな意図や目的でその人がそれをしているのかを察して、その目標を実現させるために、自分なりの方法でやり始めているかもしれません。

他者の意図やつもりを推理する力は、その同じ状況にいれば思いつきやすいでしょう。なので保育者は少し年齢の異なる子どもたち同士がやり始めることをそっと見守り、観察し、そこに起きていることにあまり干渉しないように配慮しています。そこで冒頭の担任の心配りをもう一度読んでみましょう。そこには「子どもとの対話を大切にして」ということがはっきりと意識されています。

これは子ども自身が折り合いをつける社会性を獲得していく過程において、大人のいうことを聞く子どもにしようとしているわけではなくて、お互いに「一番いい方法」を探していこうね、という民主的な手続きに似た対話をここで繰り広げたい、そうなればいいな、と願っているのです。まずは「子どもにとってどうか」ということが先にあって、その上で「じゃあ、これはどう?」という応答性になり、子どもの方はそれにまた応答するという対話が重ねられることになっていきます。

それくらいのことを、すでにこの子たちはやっています。自分の中での気持ちと付き合わせて、喜んで受け入れたり、あるいは渋々受け入れたり、反対に強く反発したり、怒ったり、泣いてせがんだり、中にはそれが効果があると覚えた方法を繰り返す出してくる場合もあるでしょう。無視したり、逃げたり、知らないふりをしたり、まるでさっきまでのこだわりが嘘のようになかったことになっていたり・・・。それなりの折衷案の数々の変奏曲だか変化球だかも、また楽しいものであって、そういうあたりにも個性が表れています。

これはもちろん乳児に限りません。幼児にも、あるいは私たち大人も大なり小なり、身近な家庭や地域の中でも、あるいは国際社会でも、そしてインターネットの中でも、悲喜交々、丁々発止のどんな対繰り広げられています。話が繰り広げられるのか、やりたいことや相手や気分や状況で変わってくるので一概にも言えませんが、それでもその全体を包み込むようなおおらかさを保って、ときどきを刻んていきたいと思います。

 

20240104 巻頭言1月号(印刷用)

top