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2024年 1月

1月12日昼食

2024/01/12

ごはん

鶏の醤油麹焼き

ほうれん草と豆腐のゴマ和え

なめこの味噌汁

オレンジ

麦茶

除夜の鐘と松の内~仏と神の習合

2024/01/11

今日は保育園で鏡開きをしました。こどもに「鏡開きって何?」と聞かれるので、神様にお供えしたお餅をみんなで、分けて食べることだよ。お餅を割るってことなんだけどね。ここでいう神様とは、トイレの神様と同じで、「八百万の神」を受け入れる感覚が風習であったように、ご先祖様が仏様であり神様であるような存在としてある何かです。神棚と仏壇が同じ部屋にあっても何も違和感のないような形で、私たちの風習のなかに溶け込んでしまっているものでしょう。

いってみれば、日本的な宗教的な営みは、条件としての信念や信仰はなくても、謂れや習慣で成立しているように見えます。それが宗教的な営みだという自覚すら必要としないほど、それとして受け入れてしまうあたりが神仏習合を成し遂げてきた日本文化の本質のような気がします。つまり日本的営みは儒教的な生活信条(クレド)も、「八百万の神」も、仏教的無常観も画然とした境界をもたないあいまいな連続体として成立しているように思えます。

保育園や学校の公教育のなかに特定の宗教を持ち込まないというルールを思うとき、千代田区区報に「正月は神様を迎える行事」という説明が書かれていても、そのルールに抵触することにはならないでしょう。なぜなら、たとえば他の宗教から「区報の新年一号に神道の説明をしていいのか」という問い合わせがあったとしても、たぶん「あれは風習や謂れの説明であって、特定の宗教をとりあげているつもりはありません」と答えるだろうと想像できるからです。

紙面の構成にもあのあたりの苦心がのぞきます。全体のタイトルは「正月小話」として構成されているのです。

同様に「大晦日小話」があるなら、除夜の鐘の謂れや習慣の説明ができ、決して仏教を取り上げているのではないということになるのかもしれません。それにしても一年を振り返るときは、つまり終点に極まるときはお寺で仏と出会い、始点に立つときは神社で旅立ちを清めてもらうという使い分けの機微に、日本的な心の動きの洗練さを感じるのですが、いかがでしょうか?

1月11日昼食

2024/01/11

ごはん

豚の生姜焼き

ブロッコリーとにんじんのおかか和え

油揚げの味噌汁

バナナ🍌

1月9日昼食

2024/01/09

ごはん🍚

納豆かき揚げ

切り干し大根煮もの

きのこの味噌汁

ゼリー

麦茶

・・これぞ春の七草

2024/01/05

 

「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すすな すずしろ これぞ七草」。

こういうものは、周りの大人がただ何度も唱えているうちに、子どもは覚えてしまうものです。別に子どもに覚えさせたくて大人が唱えるわけでもないのですが、実際は「こっちがスズシロじゃないの、いわゆるカブの丸いのがスズナでしょ」みたいなことを言い合いながら、お盆に7つの草を並べて、展示して、子どもたちに見せました。

今日は「七草がゆ」だったんです。3時におやつにしました。ちょっと塩気のあるビスケットとセットで。保育園のおやつというのは、正式には「間食」ですから、お菓子ではなくて、おにぎりやパンや麺などの時もあります。

ただ、こうやって七草がゆの話をしているのは、お代わりを何人もするほど大人気だったからです。昨年までの「七草がゆ」は、あまり人気がなくて、残っていたのです。しかし今回は完食でした。

どうしてこうも違ったのかというと、お粥ではなくて、さらりとしたお茶漬けのようにしてみたからです。炊き込んだお粥の場合は、かみごたえがなくべっとりとして、幼児には不人気でした。(でも乳児には離乳食のようなものだからでしょうか、よく食べています。)どうも幼児になると、かみごたえのある食べ物の方が人気なようです。

そこで、カツオと昆布からとった出汁のカニ玉スープに、七草が入ります。このスープを、軟らか目に炊いたごはんにかけて食べるのです。野菜が苦手だという子も「美味しい」と食べていたので、びっくりです。何人もお代わりをしていました。ぜひ、ご家庭でもお試しあれ。

今年も子ども同士の関係を大切に

2024/01/04

<午睡の際、Aくんが布団にブロックを持っていき遊んでしまっている姿が年明け多くあったことから、時間をきめブロックで遊んでから何も持たず布団に戻るという方法を取った。遊び初めは布団に持っていきたいと言っていたが、何度か説明すると、その場で遊び始め、アラームが鳴ると片付けをして布団に戻ることができていた。Sちゃんが一緒だったことで、切り替えができていたのかと感じる。今後もブロックで遊びたいといった際には、続けていきたい。>

この今日の2歳児クラス(にこにこ組)の日誌(振り返り)を読んでいて、子ども同士の関係の発達について、大切な一面を思い出します。それは子ども同士のつながりが、心の拠り所やエネルギーの補給基地の役割になっているように感じることが多いという話です。
そのことを、この記録を書いた担任に伝えると「そうなんです。子どもが親子の愛着関係と似たような関係に感じることがあります。例えば、Kさんが何かで泣くようなことがあると、ほぼ同じ月齢の「Yちゃんに話を聞いて欲しかった」と言って泣くことありました。Yさんはちょっと大人びた雰囲気を持っているところがあり、Kさんにとっての心の拠り所のようになっているというのです。
子ども同士の関係が育っていくというのは、このように子ども同士の中に、お互いに楽しくなったり、過ごしやすくなったりする関わり方を紡ぎあっているような側面があるのです。
このことは、広い意味での協同性です。何かの目的に向かってそれぞれが役割を持って力を合わせていくようようなものとは違います。担任は「本当によくわかっているなあ」と思うことが強くあるそうで、そういう子どもたちの持っている素晴らしさに気づくと、「子どもをよく見ようと思うし、ちょっと引いた場所で見守ろうと思うようになります」と言っています。

園だより 1月号 巻頭言

2024/01/04

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園だより 1月号 巻頭言「その時々を大事に刻みながら自立心と協同性を育みたい」

2024/01/04

(園だより1月号巻頭言より)

「自分の意思をしっかりともち、自分の気持ちをはっきりと伝える姿がさらに増えてきた。もっと遊びたい・今はやりたくないなど、言葉や仕草で表現することが一段と増え、いやいやも出てきているが、子どもとの対話を大切にして、思いを受け止めながら大人の思いも伝え、一番いい方法を考えたり、折り合いをつけていけるように関わっていきたい。」

これは12月の保育会議で報告されたちっち組(0歳児)の、最近の子どもの姿です。ここに見られるように、乳児の自立性と社会性・共感性がこの時期から大きな経験になっていることがわかります。自分を主張することと、他者との関係の中でその折り合いを見出していくこと。

子どもの主体と大人の主体の間に、相互の共感性を基軸にしながら、自分の気持ちや思いを伝えて受け止めてもらいながらも、その一方でお友達や先生から抑制や我慢を求めれることに対して、自分でその先をどうするか、自分自身をコントロールしていく実行機能の働きが育つような経験の積み重ねが起きています。

ここに自立心と協同性の根っこの部分が経験されていっている、と言っていいのだろうと思います。そのプロセスがどうなっているのか、さらに分析的に分け入ってみることもできます。その時に、赤ちゃんを「有能な赤ちゃん」とみるとしたら、どのあたりがそうだと思えばいいのでしょうか? ちっち組と言っても、もうこの12月末の時期の0歳児クラスは、最も月齢の低い子どもでも、当園の場合は2月生まれのRちゃんが10ヶ月です。ちょうど、9ヶ月革命が起きている時期です。

一方で、高月齢の5月生まれの男子が2人いて、彼らは1歳7ヶ月(19ヶ月)です。1歳半を過ぎれば、他者の意図を察した上での模倣、つまり他者の目的意識を理解した上で、他者がやっていることを自分もやろうとしています。お友達や大人がやっていることをそのまま真似することもありますが、どんな意図や目的でその人がそれをしているのかを察して、その目標を実現させるために、自分なりの方法でやり始めているかもしれません。

他者の意図やつもりを推理する力は、その同じ状況にいれば思いつきやすいでしょう。なので保育者は少し年齢の異なる子どもたち同士がやり始めることをそっと見守り、観察し、そこに起きていることにあまり干渉しないように配慮しています。そこで冒頭の担任の心配りをもう一度読んでみましょう。そこには「子どもとの対話を大切にして」ということがはっきりと意識されています。

これは子ども自身が折り合いをつける社会性を獲得していく過程において、大人のいうことを聞く子どもにしようとしているわけではなくて、お互いに「一番いい方法」を探していこうね、という民主的な手続きに似た対話をここで繰り広げたい、そうなればいいな、と願っているのです。まずは「子どもにとってどうか」ということが先にあって、その上で「じゃあ、これはどう?」という応答性になり、子どもの方はそれにまた応答するという対話が重ねられることになっていきます。

それくらいのことを、すでにこの子たちはやっています。自分の中での気持ちと付き合わせて、喜んで受け入れたり、あるいは渋々受け入れたり、反対に強く反発したり、怒ったり、泣いてせがんだり、中にはそれが効果があると覚えた方法を繰り返す出してくる場合もあるでしょう。無視したり、逃げたり、知らないふりをしたり、まるでさっきまでのこだわりが嘘のようになかったことになっていたり・・・。それなりの折衷案の数々の変奏曲だか変化球だかも、また楽しいものであって、そういうあたりにも個性が表れています。

これはもちろん乳児に限りません。幼児にも、あるいは私たち大人も大なり小なり、身近な家庭や地域の中でも、あるいは国際社会でも、そしてインターネットの中でも、悲喜交々、丁々発止のどんな対繰り広げられています。話が繰り広げられるのか、やりたいことや相手や気分や状況で変わってくるので一概にも言えませんが、それでもその全体を包み込むようなおおらかさを保って、ときどきを刻んていきたいと思います。

 

20240104 巻頭言1月号(印刷用)

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