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2024年 3月

小学校を訪ねて(4)4つの園で一緒に交流する

2024/03/08

久しぶりに朝から雪模様の今日、就学予定の年長児2人を連れてC小学校を訪問しました。近隣の3つの他園と一緒です。2時間目の途中から、1年1組は体育館へ行っていなかったので2組の算数と、そのすぐ隣の2年1組の国語を見せてもらいました。その後の中休みには卒園児を含めて教室や廊下で交流でき、幼小それぞれの子どもたちが楽しそうでした。

幼児は何かを「そうだ」と実感するのは、実際にその場に行くなど体験して初めて自分のことと分かるのではないでしょうか。でも今日の二人は、すでに姉や兄がいる小学校なので、何回か行ったことがあるようで、最初からあまり緊張感はありませんでした。

教室と廊下の間に壁のないオープンな配置になっているのですが、階段から上がったところで副校長先生と挨拶を交わすときまで、シーンと誰もいないかと思うほど子どもたちの声も聞こえません。どうしたんだろう? 誰もいないのかな?と思えるほど静かです。

そっと教室の方を覗くと理由がわかりました。机に向かっている真剣な横顔で何やらやっています。算数でした。青くて丸い図形を並べて何かを考えています。私たちも固唾を飲んで静かにしていると、先生が「こんにちは」を私たちに気づき何か声をかけてくださり「みんなこれが勉強しているってこういうこと?」と、冗談を言うと、わあっと笑い声が沸き起こりました。

すると、あっという間に教室は明るい柔らかい空間に変わりました。集中して何かに取り組んでいたことがわかり、それを中断させて申し訳なかったのですが、それでもそんなことは気にならないほどの、何か「弾力性のある空間」であることがわかります。中休みになると、卒園児と戯れあったり、会話を弾ませていました。椅子に座らせてもらったり、手作りの絵本を見せてもらったりと、のびのびとした時間を過ごさせてもらいました。

 

小学校を訪ねて(3)生活科と体育を参観する

2024/03/07

今日は中休みが始まる頃に小学校を訪問しました。担任の先生が1年生の教室に案内してくださり、授業で使った「てんつなぎ」というプリントを体験させてもらいました。

1から番号が振ってある黒い点を鉛筆で線を書いてつないでいくと、ある形になるというもの。先生が「すぐにできたねえ」と喜んでくれるとKさんもニッコリ。3時間目は生活科でした。

この時期の小学校では一年の振り返りをしています。今日見せていただいた授業では、「生かつかカード」というオリジナルの日記を用いて、今年の1年間を振り返っていました。

A4サイズぐらいの、絵と文字でその日の出来事を記録できるもので、先生が4月ごろは「絵だけだったけど、ひらがなが出てきて、だんだん増えてきて、この頃になると4行も書いているね」などと電子黒板に、ある子どものそれを大きく映し出して、一年を振り返っていました。記憶がよみがえるように思い出してから「自分で自分に手紙を書いてみよう」と展開していきました。

1年生は2クラスあり、もうひとクラスは体育館で体育でした。縄跳びでやっていて、前回し、後ろ回し、片足とび、大縄跳びなど、保育園でもやっているような活動でした。

保育園と違うのは、全員が縄跳びをしないといけないことで、その範囲の中で、何々跳びをしていいこと、何回跳ぶかの目的を持って挑戦していくような活動になっていました。

卒園児の他に、この小学校で開かれている活動を通じて知り合った友達がいたこともあり、見学を終えて「楽しかった」と。入学に向けて安心して迎えることができそうです。

「そうか面白い!」から「やばい!」まである学び

2024/03/06

何かを学ぶために、ある「空間」へ出かけるとします。あえて場所と言わず空間というのは、オンラインの場合もあるからです。そこでは、あるテーマについての情報がやりとりされることになります。その情報の中から、参加者がそれぞれにとって「そうか!」とか「なるほど!」とか、いろいろなこと「気づき」が起きているでしょう。


例えば「どう考えればいいんだろう?」と思っていたことに視界が開ける感じがあると、それは嬉しいものです。数学なら問題が解けたというアハ体験がありますが(実は私の場合は、ないことが多かった。ふ〜ん、そういうものか、の方が多い)、そういうのはともかく、保育の場合は、ちょっとそう事とは違う気がします。ずっと追っかけていくと、納得できる記述というか、説明に出会うことができると、まるで「雲がはれる」という言い方に近いことが起きます。そういう見方をしだしたら、そういう風にか見えなくなる、みたいかことに近いかもしれません。

そういう経験を研修報告で他の人たちに伝えることができるものでしょうか? それは決して不可能ではなく、あるまとまった量の知識をきちんと理解して、その長めの言葉で言い表された事柄を、事実と思えることと照らし合わせながら自分の文脈で並べ直して考え直してみる、といったことが必要になる気がします。何度もそれを頭の中で反芻するかのようなことなのですが、その上で保育の事例について、そのスポットライトを当ててみると、そういう理解の仕方がいいかもしれないという、保育を進める上での行動指針のようなことをイメージすることにつながっていきます。


保育をよくしていくには、どうしても、子どもの理解なり、関わり方なり、どんな活動をするかなりの判断に向かって、その事例に関して、いったん、ちゃんと立ち止まって振り返るという営みが不可欠でしょう。

振り返る中で、よく理解できていないことが見つかったりします。でも、それと同時に「じゃあ、これはどうなるのよ」も生まれてきます。そうやって保育の探究のテーマがまた見つかっていくのですが、それは会議などで話し合って出てくるというよりも、日々の保育の話し合いの中で展開されていることであって、無理やりこれでいいだろうと結論づけて疑問を残さないような進め方では、それ以降の展開の可能性が少ない気がします。変な言い方かもしれませんが、「ちゃんとわからないこと」がちゃんとあったほうが良いのです。

もうこんな歳にもなって(あるいは保育をこれだけ積み重ねてきていながら)「もっと早く知っていたら」とか「そういうことなら、これはどうなるの?」といったことが起きることもあって、恥ずかしさや悔しさを覚えることもあります。自分の不勉強を棚に上げて「そういうこと、早く言ってよ」と言いたくなることだってあります!まあ、結局は自分のせいなのですがね。そんなことをしていると、また調べたいことが増えてしまって困ってしまいます。でもそれは、楽しみでもあるのですが、締切がないので先延ばしになっていくことも多いのです。

一方で、そういうこととは別に、疑問などにも思ってもいなかったことが、「やばい、違ってた!」とか「まずいなあ、そうだったのかあ」みたいになることだってあります。そこまででなくても「その辺りは気をつけよう」とか「みんなに伝えなくちゃ」とか、修正や再確認などになります。こういうことは早く行動に移すことになります。

何かを学ぶということについて、もっと他の整理の仕方もあるのですが、何かの学びが「気づき」になるのは、それが「わかる」という経験だという言い方ができるのなら、すると、何か世界が開かれていくような感じがして、世界の見方が変わってくるようなことが面白いと思います。こういう楽しみは動物にもロボットにもないものでしょうけれど、人間の生きている世界の狭さであり広さなのかもしれません。

実験が遊びに乗っ取られていく体験

2024/03/05

自分(私)の「頭の硬さ」に気づかせる「子どもの遊び」。どんな時に自分の頭の硬さを感じるかというと、子どもが遊び始める姿を肯定できない心理の時です。期待している姿なら肯定できても、子どもが「面白い」と感じることに、そうか、そこが面白いんだ、と素直に受け止められない時があります。大抵は大人が色々用意して、そうなって欲しいと計画したりしている時ほど、その脱線にみえる姿を肯定できない傾向が自分の中にあるのに気づくのです。

先ほど、こんなことがありました。私が年長の子ども3人と坂道の勾配を変えたら車がどれくらい遠くまで走るか、ということをやってみました。これは完全に大人主導で子どもをつき従わせるような活動です。いわゆる子ども主体でもなんでもありません。でも、それを私が「実験」と称して、それらしい物を持ち出して、それらしいことをやるものですから、子どもたちには人気なのです。「何か面白いことが始まりそうだ!」という予感から、「ジッケン、やるやる!」と、意欲満々です。まあ、だまされているんです、最初は。

そこで今日は「坂道にいろんなものを転がして、どうなるかジッケンしてみたいんだけど」というと、やるやる!とワクワクしながら始まりました。ツルツル坂とガザガザ坂の滑り具合を比べようというわけです。板を乗せる柱のような土台(橋梁のようなもの)が4つあって、それ1個の高さに板を斜めに置いて、車をするすると走らせてどこまでいくか、止まったところに付箋をつけて、最長距離を目指します。

何回かやると、坂道のガードに擦れると止まる位置が短くなることに気づく子がいます。車を道の真ん中に置いてガードに擦らないように走らせると遠くまでいく。ただ、それに気づくことから、より遠くまで走らせよう!というようになるのかというと、なりませんでした。子どもの興味は「そっち」に収斂していくのではなく、拡散します。手を「そっと離す」のではなく、勢いをつけてバーっと走らせたり、急な坂上にして、地面にドンとぶつかって転がる車にゲラゲラ笑い出し、それが面白くなってきます。用意した車以外に、こっご遊び用の野菜やら、ドーナツやら電車やら、いろんなものを持ち込んで転がし始めます。

そうだよね、別に摩擦の違いで滑り具合が変わることなんかに興味を持続なんかできないよね。と私も頭を切り替えて、子どもの遊ぶままにしてあげます。ところが、ある子がドーナツのような輪になっている遊具を転がすと、面白い動きをしました。くるりと戻ってきたのです。そこでまた、一つギアが入ったように、次々と転がし始めます。やるたびに転がる軌跡が異なり、同じ動きをしません。集めては転がし、集めては転がし、何回も繰り返します。そうしているうちに椅子の脚の間を転がして通すことを目標にして、そこに「行った、行った」とか「だめ」といいながら、試すというか試行錯誤的な感じになってきます。

でもせっかくゲートのようになっているのに、今度はそこにその輪を並べて塞いだりします。もう何が面白いんだかよくわかりません。私が想像する面白さと彼が感じる面白さがちがっているのですが、私にはそうしてみたくなる感じに、ついていくことができません。たぶん多くの大人はそれをみても退屈でしょう。でも子どもはそれを試してみたい、どうなるかやってみたいのでしょう。あれだけ熱心に繰り返し遊ぶのですから、楽しいに違いないのです。

転がり方の変化に関心が移っていったのか、両手をずらしてはじくように回すことができたことが嬉しかったのか、わざわざ私を呼びに来て回して見せてくれます。

・・子どもの遊びというのはこんな感じではないでしょうか。こういうことを飽きるまでいろいろやってみる時間がとても大切なのでしょう。そういう中から、なにか輪郭のはっきりした活動に形になって、そこに何か意味を獲得しているように見えるときに大人がそこに注目して取り出して子どもの姿を描くということを、やっているのだろうと思います。

このように大人の誘導で始めた「遊びを装ったジッケン」は、途中から見事に子どもに乗っ取られて、本来の子どもの遊びになっていきました。これでいいのだと思います。そこにこれまで何度も書いてきた「遊び性」が垣間見られます。あっちにいったりこっちにいったりしているように見える中に、子どもなりの面白さの発見があって、そこに表れては消えていくような目的のようなものが見え隠れして、それもまたすぐに移ろいだり消えたりするように見えます。それでも面白さが断続的に表れています。

きっといろいろなことを試しつくしたあとで、またこの坂道を使って、何かを思い立ち、使い始めるかもしれません。このように考えると、昔私が小学生のころ、板や棒や鉄くずやドラム缶などが転がった空き地があって、そこでよく遊んでいたことを思い出すのですが、そこで何をしていたのか覚えていないのですが、遊び性について分析しているようなことが含まれていたのでしょうか。自分ではよく分かりませんが、そうだったのかもしれません。

小学校を訪ねて(2)楽しそうな授業の雰囲気を感じる

2024/03/04

今日はS小学校を訪問しました。今日も3人。この小学校へ入学する予定の子どもは一人ですが、今回訪問できない小学校へ行く子どもと一緒です。さらに近隣の保育園もお誘いしたので三園での交流にもなりました。授業は2時間目の途中から、1組の国語と2組の音楽を参観しました。

教室と教室の間は可動式のパーテーションで区切ってあるオープンな空間で、廊下や扉がありません。副校長先生が案内してくださいました。1組は国語でしたが今年の1年間を振り返るという内容で、何月には何あった、何をしたというのを黒板に月毎に書いて、みんなで思い出していました。

「この頃からカタカナを始めたよね」「あれ7月が空っぽだよ。何したか覚えている人?」「神田祭」「それはもう少し前だったんじゃない?」「5月だよ」「そうだね」と言ったやりとりをしながら、1年間でやったことが埋まっていきます。これはちょうど今、保育園でもやろうとしていることと同じで、卒園式の呼びかけにつながる方法だね、と担任とも話しました。

この小学校は卒園児が空くなったので、今回が初めての訪問だったのですが、校長先生は「こうやって来てくださるのは大変大事なこと」と積極的です。また授業中であるにも関わらず、担任の先生方も「どうぞ、どうぞ、入りください。みなさ〜ん、今度1年生になるお客さんですよ。今何をしているのかみてもらいましょうね」と非常に好意的に明るい雰囲気で、私たちを教室に招き入れてくださいました。

授業も時々冗談も言いながら、児童たちも和やかな雰囲気でした。見学している園児も思わず声を出しても、それにも自然に答えてくださるような感じです。

2組の音楽は、鈴やカスタネット、鍵盤ハーモニカなど6種類ほどの楽器を鳴らして試していました。活動のめあてはわかりませんでしたが、グループごとに分かれて、楽器を交代して楽しそうでした。

授業見学の後は、中休みの間、園の前の公園で低学年の児童と一緒に遊びました。その後3時間目の最初の避難訓練の様相も参観して今日の訪問は終わり。

その公園で一緒に訪問したH保育園とA保育園のみんなと遊びました。鬼ごっこや大型遊具で遊んでいると、4年生がその公園にきて「春を探す」というテーマでの自然観察が始まりました。

私はその児童たちに「何かあった?」と聞いてみると、すでに咲いている桜や、その花の蜜を吸いに来ているたくさんの鳥、垣根がわりに並ぶ低木の香りのいい花、小さい蕾から白い花びらが芽生えている白梅など、注意してみると、至る所に春が来ているのを、4年生と一緒に春見つけを楽しみました。

帰りはH保育園に立ち寄らせてもらい、次回以降の交流を約束、同じ小学校区での交流がさらに進みそうです。

 

小学校を訪ねて(1)卒園児との再会

2024/03/01

年長のすいすい組は9人いますが、そのうち3人をその子らが入学するI小学校へ連れていきました。

着くとちょうど中休みで、いま3年生のNUくんが校庭に出てきていたので校門越しに「すいすいさんを連れてきたよ」というと「じゃあ、先生に伝えてきて来ようか」と案内してくれようとします。

「頼もしいね、こんなになるんだねえ」と私は担任のY先生と顔を見合わせました。彼とは1年ぶりの再会でしたが、園生活でいろんなエピソードを思い出し、その姿を重ね合わせながら大きな成長を感じました。

校庭を通って入る玄関で、うわ履きに履き替えながら、次々と1年、2年、3年生の卒園児たちと再会します。「あ、〜ちゃん」と名前を呼び合い、手を取り合ってぴょんぴょん飛んだりしています。こういうことだけでも、小学校がぐっと身近になります。校庭から教室へ生き生きと戻っていく小学生たちの姿がどう映ったでしょうか。6年生に姉がいるKくんは小学校でのその姉とあって嬉しそうでした。

当園の場合は、園生活の中で、乳児から幼児まで交流があるので、お互いのことをよく覚えているのです。

副校長のC先生が出迎えてくださり、挨拶を交わしてから教室を案内してくださいました。1年生はその前まえでは3クラスだったのですが、今年2クラスで、一クラスにいる生徒がちょっと多い感じがしました。

1組は算数でした。赤と黄色の三角のピースを並べて、いろんな図形を作ってみるというもの。その様子を教室の後ろから参観させてもらいました。2組には卒園児が4人いて、3人はその様子をじっとみつめていたのが印象的です。

その後、職員室と校長室の間の、廊下につながる空間に設けられている図書コーナーで、図鑑を見て過ごしました。

国が目指している小学校とも架け橋プランと比べれば、こういった訪問はまだその入り口に過ぎませんが、子供たちが少しでも小学校以降の生活や学びに前向きな気持ちを持って歩んでいけるように、と思っています。

今年の訪問は近くの保育園にも私が声をかけて一緒に出掛けたので、他園の4月から同じ1年生になる園児たちとの出会いと交流にもなりました。年長の残りの子たちも来週ほかの小学校を複数の保育園と一緒に、訪問する予定です。

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