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2024年 4月

今週を振り返ると・・いろんな「気」が出入りしていました

2024/04/19

新年度も早いもので第3週が終わりました。半月が経ったということです。この半月を振り返ると、保護者会があった第1週。新入園児がだんだん保育園に慣れてきて、安心感と落ち着きが見られ、どんな性格でどんなことが好きで、どんなことをするのかがだんだん見えてきました。本人が気になること、気にいることがだんだんわかってきました。

日本語には気になる、とか気に入るという表現をよく使うのですが、改めてこの言葉はよくできているな、と思います。私たち保育者は環境との関わりという視点を大切にして、子どもが過ごす環境とどんな相互作用が起きているのかを見ようとするのですが、気になる、気にかかる、気に入るという時の「気」が、本人と環境との相互作用を表しているように感じられます。「気」は本人と環境とを行ったり来たりしていることを、日本語は感じ取っていたのでしょうか。

保育園に慣れていくというのは、世界を気に入っていくこと、好きになっていくこと、面白いところを発見していくこと、応えてくれる温和な大人がそばにいることが心地よいこと、そういう場が作られていく過程が見られます。

新しいクラスでの生活もすっかり軌道に乗ってきて、大胆にも4月1日から上野公園まで桜を見にいったりと、数年前までは考えられない始まり方ですが(笑)、それがそれほど大それたことでもないあたりに子どもたちの成長を感じます。早速いろんな遊びが展開していて、先生たちも子どもの姿から「じゃあこうしてみよう」という話し合いが毎日活発です。

保育園の新年度は保育をしながら、ちょっと先の計画も、常に子どもがそばにいる中で具体的に話し合ったり計画を立てたり、地域や外部の方々と連絡をとったりしながらという、同時並行の作業が色々と多いので、10分、15分単位の異なる作業を次々とやりこなしていく感じがあります。それもおおらかに、鷹揚にやっていくことが大事なのです。心に余裕がないと、すぐに子どもに見破られますし、大人が余裕がないと子どもも自由に遊び出すことができにくくなるのです。

そこはきっと親子関係でも同じではないでしょうか。僕の気持ち、私の気持ち、それがお父さんやお母さんに「わかってもらえている」という安心感が子どもには大事です。子どもも望んでいることが常に「かなえてもらえる」と期待しているわけではなくて、それはできることが3割しかなくても「気持ちは大体わかってくれている」というを望んでいるでしょう。

ちょっと脱線しましたが、子どもの仕草を見ると4歳ぐらいになると「あれ、なんかあるな」(なんか気持ちを隠してそうだな)ということがすぐにわかります。本人が自分のやっていることを「いいことと悪いこと」がわかっているからです。それを隠しているとまだ幼いのでバレます。3歳児クラスの保護者会ではそれは毎年お伝えしていますが、本人もやってはいけないと知っていて欲求に負けて葛藤を抱えているからこそ「隠す」「ウソをつく」ので、そこを「そんなに持っていきたかったんだね」という気持ちは大事にしてあげているのです。

いろんな「気」がいろんなところで出入りしている新年度の始まりです。

遊びの中の「つくる」ということ

2024/04/18

今朝も2歳児クラスで散歩に出かける前まで1時間ほど保育に入りました。子どもがうまくそれぞれの遊びを楽しむか、あるいは意思疎通もうまくいって一緒に楽しめるか、そのバランスがだんだん後の姿が増えていくのがこのクラスです。この年度のどこかで誰もが満3歳になっていく1年です。

この時期はまだまだ一人で自分の世界を楽しむ要素が強いのですが、それ以前とそれ以降の過渡期にある特徴が現れ始めます。それは自分で「つくる」という要素が増えていくように見えます。

子どもが成長していくにつれて大きく変化していくのは、子どもが分け入っていく世界が豊かになっていくと同時に、子どもがその世界の一部を構成し、つくり出していくことになっていく、そのような活動が増えていくようです。先生たちの子どもの活動の記述も、乳児の場合は、世界との関わり方が出会う、触れる、探索する、といった行為の描写が多くなります。そして何かを描いたりすることもありますが、心の動きをきっとこんな「つもり」だろうという大人の想像から例えたような表現になりがちです。

一方で、2歳児クラスになると、言葉を話し出し、簡単なものならブロックを組み立てたり、線路をつないだり、粘土をこねたりして「かたち」を作り出して構成するような遊びができるようになってきます。幼児になると、時には劇遊びの小道具とかお店屋さんごっこの道具とか、物語や実在の人物になったつもりの象徴的なグッズを作ったりします。昨日の日記の写真のように、テレビゲームのリモンやカフェバーの仕草を真似して遊んだりしだします。

また屋上で見つけた花を食事の時に飾ったり、ベランダでピクニックごっこをしながら、本物のお茶を飲んだりしています。(5月になったら親御さんにお弁当をお願いしてピクニック遠足をしようという話し合いも子どもたちと進んでいます)

子どもの成長は環境を駆使して「つくる」過程にいろんなことが取り込まれていくようにも見えてきます。そういうことを、つまり環境からの呼びかけに応答して自分を含む世界をつくり変えていくようなことを、子どもはやりたがっていくようにも見えてくるのです。私たち大人も世界を常につくり変えていますが、探究に伴うものの一つにつくるということがありそうです。さぁ、そう考えると、そのことはとても広く豊かなものとしての可能性を感じるようになっていくといですね。

4月18日 昼食

2024/04/18

ご飯

豆腐ハンバーグのみぞれソース

キャベツのゆかり和え

なめこの味噌汁

キウイ

遊びは「こうしたらこうなる」の試行錯誤

2024/04/16

今日は朝早くは、乳児の部屋で、その後9時ごろから昼過ぎまで、ずっと2歳児クラス(にこにこ組)で、そして午後からは3階の幼児と一緒に過ごしました。

絵本を読んで、と持ってくる子、木製レールの上で電車を走らせる子、テーブルの上でパズルを始める子、ままごと遊びを始める子などが分散してそれぞれのゾーンで遊んでいます。

幼児ではスマホやテレビゲームのリモコンづくりが流行ってました。「こんな人いるよね」と、足を組んで、スマホとドリンクを持ったポーズも見せてくれました。リモコンはマグネットシートをうまく使って取り外しができるようになっていました。

子どもの遊びの特徴として共通するのは、とにかく感覚を使い、行動するという循環があるということです。いろんな循環の説明があると思いますが、遊びが学びであることをどう説明しようかと思うと、次のようなループの繰り返しのようにも見えてきます。

子どもは見たり触ったりしながら環境からの情報が身体(脳を含む)に入ってくると、また手を動かしたり、歩いたり、作ったりいろんな動きをするのですが、その動きがまた環境を変えるので「こうしたらこうなる」ということを学んでいます。環境への関わり方や意味に気づく、それを取り込もうとして試行錯誤して考えたりするようになるということです。

こんな言い換えはどうでしょうか。環境からの情報を何らかの形で身体が処理して、運動(行為)となって心も身体も動くのですが、動くのでまた環境からの情報が変化してそのフィードバックから関わり方や意味を習得しているように見えます。こうしたらこうなる。それを飽くことなく、精力的に繰り返していました。つまり学習が起きていると言っていいでしょう。これはアクティブラーニングと似ているかもしれません。

その使う感覚で圧倒的に多いのは見ることと触ることです。自然や生き物を含めて触っていいものがたくさんある方がいい。面白そうと思うもの、触って見たくなるもの、やってみたくなるものがないとつまらない。見ることと触ること(操作することなど)のその二つが一緒になって、さらに表象(言葉など)が絡んできます。

また環境に入れていいのかどうか、質がかなり違うのですが、他の子どもも絡んでくるので、対人関係の「こうしたらこうなる」の関わり方も、ずいぶんと学びながら遊んでいます。さらに「こうなるなら、こうしてみたい」と思いついたことが達成できると嬉しくて、とても楽しそうで、生き生きと熱中していきます。

 

それからもう一つ、感情もかなり激しく動くのです。「心が動く」と私たちはよく言うのですが、この心情も運動しているようなものなのでしょう。いろんな感情を表します。いい感情もあればその反対に「こうしてみたい」が制限されたり、他の子どものやろうとしていることとぶつかったりして思うようにいかないと、怒ったり、悲しくなったり、我慢しないといけなくなったりします。

全体的な印象としては、次から次へと遊びが移り変わっていくのですが、個人にしても集団にしても、同じ状態がずっと続くということはありません。遊びは動的なうねりのようなものを作りながら、展開されていきます。

入ってくる情報と出ていく運動。その無限で高速なループの繰り返し。生きることそのものようにも感じる繰り返し。遊びは本当に微細な「こうしたらこうなる」からダイナミックな「こうしたらこうなる」を繰り返しながら、ある方向へ向かって伸びていくようです。

 

遊びの最初にありそうな「探すこと」といつまでも続く「探究」〜とうきょうすくわく〜

2024/04/16

そもそもの話の続きです。今年の保育の年間目標の一つに「自分の好きなものを見つけて、それを深めていく」というのがあります。発見と探究です。

環境からどの情報を取り出すのかは子どもによって異なりそうです。子どもにとっては情報が飛び込んできやすい環境だったり、反対に見えにくい環境だったりするかもしれません。そういう意味で遊びやすい環境というものがあるでしょう。

そこで今日は「探す」ということを子どもはよくやるので、どうしてだろうという話です。保護者の皆さんは、必ず入園の見学をされたはずです。その時、子どもと一緒に来られた方は、子どもが自然と遊び始めた姿をご覧になったと思います。環境に吸い寄せられるように始まる遊びの姿です。子どもにはあらかじめ何も言葉では説明を受けてはいませんし、説明してもわからない赤ちゃんだったりしたわけで、それでも親の手から離れて、子どもは自分で遊び始めます。その遊びの最初には「これはなんだろう」といった探索のような段階があるはずで、そこからが、きっともう「遊び」なのでしょう。

ちょっと突飛な話に聞こえるかもしれませんが、こんなことを思い浮かべています。

もし、子どもが新しいものを面白そう!と興味を持ち、遊びの最初に何かを「探す」という行為が生まれやすいのだとすると、それは人類の特徴の一つではないだろうか、と思います。食べ物を探すとか、危険を察知するとか、敵と仲間を見分けるとか、何かを「探す」というのは、生存に不可欠だったのではないでしょうか。

地球の歴史の専門書によると、カンブリア紀以降の生物が過酷な生存競争にさらされて生き残ってきたそうです。その機能を環境との関係の中で身につけているとすると、私たちもそうしたセンサーのようなものを発揮しやすいのかもしれません。リサーチして何かを得たり、あるいは避けるなどの機能は、それは生死に直結する機能だったのかもしれません。

さらに、自然からある意味ではみ出してしまったように見える人間は、人間が作り出す物は社会の中で、あとでどうなるか予想がつかないことが多いので、いろんな問題を引き起こしているように見えます。自然になかった人工物(例えばビニール)を(海藻と)間違えて食べて死んでしまう海洋生物のように。原子爆弾を作ってしまって人類絶滅までのカウントダウンが真剣に議論されてきたように。

人間は自分でいろんなことができるようになるまで、大人が守ってあげないと一人では生存できない生物です。脳と身体が発達して大人になるまでに相当の時間を必要とします。ちょっと前に思春期が18歳から22歳までに延びたという研究が話題にあったことありました。本当かどうか知りませんが、18歳としてもその後の青年期も含めると、相当長い間、極端にいうと「一人前」じゃないということなのでしょうか?

こういうことと遊びが関係するのでしょうか? 遊びは環境への適応のために進化の中で得たものだとすると、きっと教えなくても世界を探し始める、目新しいものに無意識に手を伸ばすような行為が、脳と身体を作っていくのでしょうか。好奇心とか興味や関心などと名づけられているようなことが、探究のはじまり、として不可欠だからでしょう。

それにしても人間は探究が好きですね。いつまでも学び続けるとか、探究は終わらないとか、動物ではありえないことをし続けるようになっていることが、ある意味で不思議です。はい、もう終わり、ここで終了です!というのはないのですね。

どんな場所であろうと、それがあれば移動して未知の世界に行こうとする衝動に突き動かされているのでしょうか。地球上のありとあらゆるところに進出してしまう人間。探究し続けましょう!という文句で終わる文章もよく見ます。それだけ課題が山積ということなのでしょうか。

実は、それだけではなく、きっと「世界」はそれだけ謎に満ちていて、いいことが待っていると思いたい。その探究のパスポートを人間だけが手にしている、ということかもしれません。そうだとすると、すごいですね。また不思議です。

絵本の「おさるのジョージ」の原題は「キュリアス・ジョージ」好奇心いっぱいのジョージでした。そして、そこから始まる経験を自分で制御する力を発達させるために脳が大きくなっていったのかもしれません。色々な場所やものを見つけて探究を始められるように、保育でも子どもにとってのその環境とはどんなものかの、その探究は続くのです!

4月16日 昼食

2024/04/16

ごはん

カレイの塩麹焼き

じゃがいもとひき肉の煮物

麩とわかめのすまし汁

バナナ

子どもに聞こえる「面白い」もの

2024/04/15

子どもは新しいものが好きなので、大人から見るといつも見えている世界の「正面」よりも、「先端や裏側や異物や意外なもの」に目をつけてきます。もちろん大人だってハッとすることもありますが、子どもが注目するものは「面白い」ものなのでしょう。今日は午前中に幼児20人と一緒に公園で過ごしたのですが、大人なら聞こえないような物からの「呼びかけ」が子どもたちには聞こえるようです。

大型のアスレティック遊具やブランコ、砂場などもあるので、もちろんそれで遊んだり、広い原っぱでかっけっこや鬼ごっこ、かくれんぼもやったりします。私が鬼のタガメになって逃げ回るおたまじゃくしたちを追い回すというひと時もありました。それはそれで楽しいのですが、こんな姿もたくさんありました。

「こっち」と私の手を強く弾くので、引っ張られていくと、歩道の欄干を歩きながら手でなぞり始めます。地面の上を枝を手にして車のワイパーのように左右に動かしているので、なんだろうと思ったら、地面の上を履くようにすると現れてくる小さな石。それを拾ってポケットに詰め込んでいます。

何かの葉っぱを口につけて「ピー」と音を鳴らしたり、花壇の縁を上手に落ちないように渡って歩いたりしています。丸太を模したベンチは飛び石の遊びになり、根本から別れた樹木の枝は木登りに使われています。

アリを見つけてはそれを追いながら、自分の持っている枝に登らせようとしている子もいます。手にした紙コップには、枯葉と何かの幼虫が入っていました。数人の女の子が輪になって座り込んでいるのでなんだろうと思うと、公園の水道メーターの蓋を開けてその中にいるダンゴムシを捕まえては、また元に戻してあげたりしています。

子どもたちは、大人がここで遊んでほしいとデザインした物や空間ではないところも、自由に関わりを求め、探索をしたり、それらの世界に出あおうとしているようです。

(ここで紹介したような写真があまりなくてすみません。写真を撮るのを忘れてしまうぐらい、めだたない遊びなんですよね)

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