新しく3人のお友達が加わった、ぐんぐん組。身近なものや周りのお友だちと関わりながら、世界と自分の関係を確かめているようです。
クラスの正式名称は「おおきくのびる ぐんぐん組」。春の保護者会の最後は1歳児クラスでした。進級した子どもたちは、すでに昨年の春から1年間過ごしてきた場所なので、すっかり生活にもお友だちにも慣れているので、新年度を迎えても大きな変化はありません。知っている先生ばかりで、そんなに緊張もありません。
この子たちがやっていることを何に例えるとぴったりくるだろう? 手で触ったり、もったり、振ったり、落としたり、はいはいしたり、つかまり立ちやよちよち歩き。電車を走らせたり、絵本をめくったり、スコップで砂を掬ったり、コンビカーにまたがったり・・とにかくいろんなことをしています。
ウクレレの伴奏に合わせて、いろんな歌も歌います。本人の中では歌がなっているのですが、聞こえてくるのはその片鱗だったり、一部の鼻歌のようなものですが、気分よく歌っているのがわかります。
そんなとき、本人の中では世界との出会いで、目眩く(めくるめく)高揚感に満ちているのですが、それを外に見えるようにすることに長けていません(というか、大人になっても基本は同じだと思うのですが)。ジェスチャーや仕草では限界があって、その大きな手がかりは言葉が大きく、そもそも言葉の獲得は本人にとっても大きな道具になっていくので、本人にとっても周りの人とのつながりにとっても大きな役割を話します。
知らない街の駅に着くと、私はその街の地図を手に入れて、さてどうしよか?と眺めてみることがあります。それと同じように、子どもも出会った世界でその都度、自分なりの世界地図を作っていて、あそこなら手が届くな、とかこうしたらこうなるとか、色々と自分との関係というか関わり方と意味を取り込んでいくのではないでしょうか。あそこには何がある、あそこでこうしたい! そんなことを繰り返しながら、地図(空間的な意味だけでなくて)の中の自分の位置を確かめているかのように見えてきます。
世界と関わることで自分ができる、というようなことをよく聞きます。この時期の子どもに限らず、世界を学ぶことが自分を知ることになるという意味はどういうことなのでしょう。生きるということは、ある種の自分の住んでいる(物理的社会的歴史的な)地図を拡大させ、新天地を取り込んだり解析度を上げたりしながら、その中を自由に行き来できるようになっていく方法を学んでいくこと、なのかもしれません。
そして大事なのは、そのナビゲーションのカーソルを動かすのが本人であり、地図の中の<現在地が自分>というものになるという関係でしょう。自分を制御できることは、道の行き止まりから分かれ道に戻ってきてやり直すフィードバック制御を積み重ねて、自動操縦できるようになっていくことに近いかもしれません。