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2024年 6月

子ども文化の知を経験すること

2024/06/10

今日からギビングツリーの「リーダー研修」が始まりました。その参加者が5人見学にいらして「子どもたちが自分たちでどんな風に生活をつくっていっているのかをみたいです」とのこと。子どもの「意見表明」「参画」が乳幼児の場合はどういうことになるのか、そうしたテーマが今回の研修になっているからです。半分冗談で「カブトムシの意見も子どもが尊重してますよ」「カブトムシもエイジェンシーなんですよ」と言いながら、園内を案内しました。

自然界の知覚と行為のシステムのなかに、人間の表象やシンボル体系がどう位置づくのか、この1年ほどでしょうか、時々その疑問を思い出すことがあります。私たちは日常生活のかなで「物の世界と精神の世界」を二分して使い分けるということを、何の疑問も持たずによく活用しています。デカルト的二元論。物と心。また、それと近い問題意識として子ども集団、子ども同士の関わりのなかに蓄積されている知というものがあって、子どもたちは取り出して活用しているといってもいいんじゃないか、ということを考えたりしています。

たとえば今、ある子どもたちにとってカブトムシが保育室のなかにある環境知として大きな意味を占めているのですが、その意味は子ども集団によって蓄積されていく違いや変化があります。私が八王子にいたとき、歩いて行ける場所にカブトムシがいたので、毎年捕まえてきては子どもたちが観察したり育てたりしていました。ある朝、3歳児クラスの子たちがカブトムシの入ったケースのふたをあけてさわっているとき、蓋をしないとにげてしまうと主張する子がいて、蓋をする、しないでもめていたのです。

すると担任はその様子をみながら、そばで別のことをしている年長のRくんに、カブトムシ騒動の方へ注意を向けさせると、Rくんはすぐに先生の意図を察して近付いて行き「昼間はにげないよ」と教えてあげたのです。すると「(へえ、そうなんだ)」という風に、いざこざは静まったのです。カブトムシは夜によく活動するから、昼間は飛んでいったりしない、ということを知っているのです。

そのようなことが毎年繰り返されている異学年が混ざって暮らす集団には、そのような子ども文化が伝承されていくもので、その知恵たるや広範囲に及びます。実に様々な知恵がつもり、成長していったように感じます。起きている子がうるさいと寝ている子が起きるから「しずかにして!」と子どもが子どもに伝えていましたし、食事のセミバイキングもよそってあげるのは当番の年長の子どもでしたが、食べ始めるタイミングをめぐる話し合いでは、当番の子どもたちの意見が尊重されていました。それに引き換え、いまの千代田せいが保育園は、まだその子ども文化の伝承があさく、新しい知恵をスポンジのようにぐんぐん吸収しているように感じます。

昨日の話の続きをすると、精神間機能から精神内機能への2つのルートには、子ども同士、子ども集団がつくり出す場についてのルートはどれくらい想定されているんだろう? そんなことを考えながら、この研修に参加しています。大局的な議論と緻密な議論を組み合わせたいという思いで。

 

不自由と思える言葉をこえていくために

2024/06/09

言葉では自分の複雑な思いをちっともうまく言い表せないという感じを、大人になってもずっともっています。今でも覚えているのは小学校6年生のときに、詩を書いてくる宿題があって、何も実感がないのに、ただ言葉の羅列だけで書いて出した詩がほめられたというか、感心されたのです。そのとき「な~んだ、先生って見抜けないんだ」とがっかりした記憶が鮮明に残っています。こどもにとって真実な言葉とそうでない言葉というものが歴然とあって、その差異は大げさかもしれませんが、大人を信じられるかどうかにかかわるほどの差異だったという思いがありました。

それはだんだんと私自身の拙さというか言語表現における未熟さという理解に回収されていくのですが、そうして言葉をもう一度信じていく世界に入っていったという追想があります。ところが、保育という、子どもの内面の動きということを考える仕事になると、言葉で表していくことがやっぱり制限なんだ、ということを学んでいくことになります。つまり自分が幼いころに感じていた内面と言葉の遠さを、改めて解説されているものに出会うことになるわけです。

それは存外、いたるところにさらりと書いてあって、「ことば以前のことば」に類する書物もたくさんあるし、子どもの共同注意をめぐる表象やシンボルの意味解説のなかにも、登場してきます。たとえば大藪泰さんの「共同注意の発達 情動・認知・関係」でどう書いてあったから調べなおしていたら、改めて言葉の違和感の根拠を発見したりして驚き、そこに線を引いたりしています。たとえば、こんなところです。

<・・・子どもの活動は、社会システムのなかで意味を獲得し、文化の枠によって方向づけられる。・・子どもの活動は、非常に早期から、生活環境がもつ「プリズム」によって屈折させられる。なぜなら、対象物から子どもへの通路、また子どもから対象物への通路は、いずれも他者の意味世界(文化)を経由する通路に依存するからである。こうした観点から、ヴィゴツキーは子どもの文化発達の2段階を唱えた。・・・>

そしてあの有名な「精神間機能から精神内機能へ」の説明があり、子どもの指さしが母親に子どもの意図を気づかせ母子の内面世界に出会うという説明が展開されているのです。

そこを「プリズム」と言っていいということは、ある種一つの「制約」でもあるわけであって、子育てや保育において、無垢な子どもにいろんな色付けをしてしまっていることへの躊躇を感じるのは、別に過剰な自省でもなく、逆にあってしかるべき慎重さや敬意であっていいことなんだろうと思い至ったりするのです。

この「思いと言葉」の差異やもどかしさや危うさは、いろんな場面で思い当たるわけで、それを書き出すときりがありません。こんな話をしだしたのも、実は昨日9日(日曜日)は、映画「こどもかいぎ」のアフタートークに招かれて、観終わったあるお母さんから質問を受けたときです。わあ、その不安感わかるなあ。でもどう説明したらいいだろう?と。

また、この差異を子どもも経験しているんだと想像すると、たとえば「いやいや期」もそういう事情が入り込んでいるのかもしれませんし、あるいは言葉ではない身体的なかかわりのなかに、あるいは「100の言葉」という多彩な表現として外の世界へ定着させていく内面表出の方法のバリエーションに、だからこそ意味があるということになるんだろうと合点したりもするのでした。

そういうことなら、その制約を超えて、世界志向プロセスの豊かさとは何かを追求したくなります。もちろん、それが保育の質と重なっていくように、です。

魚釣りの合間にアリの観察も

2024/06/08

魚釣りへの関心は、子どもによって差があります。お昼ご飯が終わったらまた午後も行く!という意欲満々の子もいれば、最初から全く興味を示さない子もいます。そんなことより、お店屋さんで忙しいの!と言わんばかりの子もいます。そこで当園ではみんなに同じことを無理にさせるということはありません。昨日の魚釣りもそうでした。部屋やベランダに残って、同じ時間に別のことをしている子どもたちもいました。

昨日の担任の報告にも「途中エサのオキアミをありにあげると、せっせと運ぶ様子も見られ、釣りそっちのけでその様子を楽しむ姿もありました」とあります。

たしかに、魚釣りを始めて、なかなか釣れないとなってくると、つまらなくなって別のことをやりたがる子も出てきます。花壇の周辺をひらひらと飛んでいるシジミチョウを追いかけたり、ダンゴムシを探し始めたり、釣りの餌の小エビ(オキアミ)を運んでいるアリの観察を始める子がいたり。階段を使った運動遊びを始めることもいました。

中でも少し盛り上がったのはアリにオキアミをあげてどうなるかを見てみたいという子たち。この公園には扇形の階段になっているのですが、私がその階段をどんどん登っていくアリを見つけたので、ちょっと大袈裟に「アリがクライミングしているよ」と教えてあげると、数人の子たちがその追跡を始めました。

そして10数段を登り切ると花壇の隅にある「穴」を発見。Mくんは「ここだ。ここにあったよ」と、そこにオキアミを持っていって、置いてあげようとしていました。

自分の体よりも何倍も大きなアリが、遠くまで何段も運んでいることに私は驚くのですが、子どもの注目点はそこではなかったようです。

でもそこを拡大して動画でみんなで見てみたりすると、また違った体験になるかもしれません。テレビやネットにも同じようなものがあるのですが、それよりも実際に自分たちが行ってみてきたものでやったほうがいいでしょう。これは来週のお楽しみ。そういえば、Mくん、アリを部屋で飼いたいと言っていました。

過去にもやっていたのですが、いまの幼児クラスの子どもたちは知りません。3年前の2021年6月7日の「園長の日記」と「保育アーカイブ」「STEM保育」にその記録が残っていました。

https://www.chiyodaseiga.ed.jp/stem/page/8/

こういう事は大人も飽きないで、毎年続けるためにも、大人の探究も欠かせないのかもしれませんね。

神田川で魚釣りをしてみた

2024/06/07

目の前の神田川には魚がいます。目撃情報によると「鯉のような大きな魚」が泳いでいるそうです。今年4月9日に年長さんが話し合ったときにも「今年やりたいこと」の中に「魚釣り」が挙がっていました(写真)。

その後、5月2日の花壇の花植えの時に和泉橋出張所へ「どこで魚釣りをしていいのか」を尋ねに行き、「どこで釣ってもいい。魚釣りを禁止しているところはない」という返事をもらったのでした。

その後、魚釣りに必要なものを調べて竿と針とエサが必要だとわかり、部屋の中で魚釣り遊びも始まって、納涼会でやるゲームに「輪投げ」と「魚釣り」が候補に挙がっています。

天気もちょうど良さそうな日ということで、今日、1回目の魚釣りに出かけました。場所は園の目の前の防災船着場でもある「佐久間橋児童遊園」。

公園と桟橋の隙間に糸を垂らしてみました。餌はオキアミで針につけるのは先生がやり、2本の竿を子どもと一緒に垂らしてみました。

みんな「釣れるかな」と興味津々で浮の動きを見ています。場所を変えたり、餌を付け替えたりしながら小一時間の魚釣りをやってみました。

和泉橋の欄干から垂らしてみると、子どもたちが魚を発見!「ほら、あそこ!」「いた、いた。早く!」とか、子どもたちからは急かされるのですが、どうも私たち大人には見えませんでした。ああだ、こうだと大賑わいの時間だった魚釣り。園に戻ってくると、「どうだった?」と先生に聞かれると、子どもたちの第一声は「釣れなかったけど魚いた」という報告になっていました。

というわけで、年長の担任はこんなふうに今日を振り返っています。

<魚釣りをしたい!という子ども達からの願いを叶えることができたが、今日は魚は釣れず「ご飯の後も行きたい!」といった声も聞かれ、釣れないながらも楽しんでいた様子だった。ではどこで釣れるのか、どうやったら釣れるのか、エサはこれでいいのか?など、子ども達と一緒に考えながら次の挑戦の機会を作っていきたい。>

さて、次回に向けて子どもたちの魚釣りはどうなっていくのでしょうか。

 

大事に育てたものを分けてあげる姿から感じる育ち

2024/06/04

この手のひらの上のもの、なんだと思いますか?

年長のKくんが「これ、見て」と見せてくれました。保育園でさなぎになっていたある昆虫が、先週末から続々と土の中から姿を現しました。そうです、カブトムシの脱皮した「抜け殻」です。彼は虫が大好きで、幼虫の頃から大事に育ててきました。枯葉を食べて蛹になるまでにとれたフンの量もこんなにあります。多分全部で40匹以上はいるんじゃないかと思います

そして生まれたばかりのピカピカのカブトムシをカゴに入れて「にこにこさんにあげていい?」と聞いてきました。

先生がそうしたら?と促したわけでもなく、一つ下の2歳児クラスにプレゼントしたいというのです。頻繁にせっせと枯葉を取り替えてあげたり、噴霧器で湿気をあげたりしてきた大事なカブトムシを年下の子達にあげたくなるという思い。いいものを分かち合いたいという気持ちが出てくるもんなんですね。

お迎えの時にお母さんに、その話をしたら「最近、ちぐにの小さい子たちに興味があるようなんです」と彼の優しさを分かち合いました。主任は「生き物を飼っていて良かったですね。これも広い意味で協同性や社会性の育ちですよね。そういう環境を用意したから生まれてきた姿ですかね?」と語っていました。

<7自然との関わり・生命尊重><3協同性>

 

 

退院してきたお友達を迎えて

2024/06/01

(園だより「巻頭言」6月号より)

「ねえ、一緒に遊ぼう!」「遊ぼう、遊ぼう」ー。歩行用の装具を右足に取りつける彼を取り囲んでいます。口々に言っているのが、この言葉でした。着いたよ、の一言で3階から駆け降りてきた子どもたちです。歓迎の気持ちがそんな言葉と行動に現れていました。

何人もの「遊ぼう。遊ぼう」の言葉に前に省略されているものをあえて想像で補足すると(やっとこの日が来たね。ZOOMで約束したように)「一緒に遊ぼう」とでも言っていいでしょう。昨日の「職員室だより」でお知らせしましたが、彼はある病気の治療のために入院して治療を受けていました。面会ができないので、病室と園内をオンラインで繋いで子ども同士のかかわりを持っていたのです。

親御さんと一緒にこの姿に接して、いろんな意味で「よかったあ」と胸が熱くなりました。自分だけどうしてこんな目に遭わなければならないのかと悲しく悔しい思いもあったでしょうし、友達とあったりするとかえってその気持ちを強くしてしまわないかも心配しました。でも親御さんが本人の気持ちを確認しながらZOOMで繋いだ時も、先日の親子遠足で参加した時も、それが前向きな気持ちを産んで、張り切ってリハビリに取り組んだそうです。

そして、退院というこの日を迎えることができました。黙々と装具をつけたり外したり、どんどん自分だけで室内を歩いていく姿を目にしてすごい、と思いました。私の予想をはるかに超えた先を彼は歩んでいます。心配したことを見事に打ち破ってくれました。私でさえそう思うので、ご両親にとってはひとしおでしょう。この病気では退院までの最短記録だそうです。

さらにもう一つ、子どもたちの再会を喜ぶ姿も私たちは嬉しかったのです。しかも「一緒に遊ぼう」という言葉になるところが、いい。やっぱり、遊びです。そして一緒に遊ぼうという、その一緒に、のところ。彼はずっと黙っていましたが、どう感じていたでしょうね。仲良しのRくんとはふざけて叩き合いごっこのようなことを長い時間やっていました。立ったり座ったの動作も自分で椅子や机の使い方を工夫しています。それを周りで手伝う子もいます。

昼食を2階のダイニングで食べるとき、ある子二人がテーブルを寄せて大きくして、彼を囲んで食べるようにしたのです。彼らの中から生まれたアイデアです。座る椅子が足りなくなると、お盆を詰めて寄せ合っていました。お父さんはちょっと離れたテーブルで見守って食べています。園生活の大事なところは子どもたち自身がつっているということを実感します。

 

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