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TEL

2024年 8月

8月19日 昼食

2024/08/19

タコライス

野菜スープ

だいこんときゅうりのマヨサラダ

オレンジ

8月18日は「にちよう開放」です

2024/08/17

世の中がどうであろうと、それは大人からみた世界のことであって、子どもたちにとってはそれぞれにやりたいことがあってそれがやれることが一番です。

台風7号が遠ざかって今日は暑い一日でしたが、今週はその準備や対応で気の抜けない週末になっていました。それでも子どもたちは、それぞれの探究をいそしんでおり、その様子はドキュメンテーションにお知らせしてありますが、とにかく元気です。

このエネルギーをご家庭で爆発されたら、それは誰でもギブアップでしょう。大人とてもまともについていくことはできないかもしれません。もちろんお子さんにもよりますけれど。

一日の生活のなかでうまくリズムをつくってください。うまく保育園も家庭生活の一部に取り入れてその流れもうまくご活用ください。園での遊びや生活のうまくいっている「ノリ」のような部分を、家庭でもそのきになって没頭できる時間をつくってみるとか、家庭での遊びの延長を園生活でも楽しむとか、それぞれのつながり具合も担任と話し合ってもらえると何かヒントがあったり、うまい子どもとの距離感が生まれたりするかもしれません。

明日は日曜開放の予定です。外に出たくても暑すぎて、という方はちょっと園で過ごしてみるのもいいかもしれません。

進路がそれた!台風7号

2024/08/16

本日は台風への対応ありがとうございました。流れを振り返りました。

・・・

朝7時21分に次のようにお知らせ。

「午前中から暴風に警戒してください。台風7号は勢力を強めながら関東に接近しているため、本日16日午前中には東京にも昼過ぎまでに「暴風警報」に切り替わる見通しとなりました。外を歩くのが危険な状態となります。傘なども通用しません。そのためできるだけその前までのお迎えをお勧めします。また本日ご都合がつく方は、お休みなさるのが賢明です。」

雨よりは風が危険らしい。ただ昼の情報では進路は北北東に傾き始めたという。でも風速40メートルの「暴風圏」が千葉を直撃しそうなルートであるという。そこで昼過ぎの12時8分に「本日のお迎えのタイミングについて」次のようにお知らせしました。

「気象庁は11時45分、千代田区にも「暴風警報」(警戒レベル3)を発令しました。今後雨に加えて風がより強まりそうです。現在の進路予想によると「暴風域」はかすめる程度で済みそうです。しかし夕方から夜にかけて雨風は強まりますので、ご注意ください。また東京都には「洪水警報」も出されました。少し離れた台風の雨風は、急に強まったり弱まったりを繰り返します。突風は巻き込まれると大変危険です。登園されている方は再接近する夕方を待たずに、早めのお迎えをご検討ください。」

結果的に台風の進路は東へ大きくカーブして、関東直撃は免れたのでほっとしました。

昨日から法人本部、千代田区とも情報交換しながらの対応だったのですが、子どもの安全確保を第一に考えて、保育をすすめます。今日は皆さん、事前にお休みしてくださったり、早めのお迎えに来てくださったり、ありがとうございました。またそうしたくてもできないお仕事があることも理解しております。そういうことで心苦しく思うといったことのないように願います。

台風7号接近によるお願い

2024/08/15

台風7号が関東にむかって北上中。この時期のこのコースはあまりない気がするので、こういうのも気候変動のせいだろかと思ってニュースを聞いていると、やはり海水の温度が高くなっているので勢力を強めながらやってくるそうです。そこで保護者のみなさんには次のような案内をお知らせしました。

明日は台風7号が関東に接近するため、以下の点にご配慮とご協力をお願いします。

(1)明日の夕方は早めのお迎えが必要になるかもしれません。雨風や交通機関の運行状況などを予想して、早めの判断をお願いします。

(2)卒園生など保育ボランティアの受け入れ(SSSを含む)は、明日は中止とさせてもらいます。

情報に振り回されない生活

2024/08/14

人間の脳を含む身体は昔からあまり変わっていないのに、これだけ多くの情報が向こうからやってくるようになると、というよりも、もしかするとこちらからアクセスするようになると、気づかないうちに情報中毒のようになっていて、物の過剰消費と同じようにあまり必要でもないのにそれに接すること自体が目的化して、副作用のようなことがきっと起きているのだろうと思えて仕方がありません。

昔からテレビは見すぎるなとか、本は読みすぎるな、みたいなことが言われてきた時代があったのですが、私なりにそういうのをどう理解してきたかというと、ようするに振り回されないように自分に適切に作用させるというようなこととして理解しています。いったい自分はどうしたかったんだっけ?という肝心かなめのテーマを忘れて、目の前にやってくる事象をおっかけたり、食べたり寝たり必要な最低限欠かせない生理的習慣のはざまに生じる意識的な時間を、受動的な情報アクセスタイムになっていたりするのかもしれません。

いったいそこで何か自分にとっての主体的な自己形成なり社会貢献なり創造的な営みに近いものが少しはあってもいいだろうけれど、その情報空間の扉を開けてしまうと、自己を見失ってしまう自分に気づくことすら難しい情報消費社会の渦に巻き込まれてしまうリスクがあるように思えて仕方がありません。面白く、うまくできてますからね。

これだけ多くの人が、寄ってたかってPVを稼ぐような姿を眺めていると、昔は祭事の夜の道路で茶碗やバナナを面白い口上で売りさばいていた芸を思い出してしまいます(知らない方が多いと思いますが、要するにフーテンの寅さんの世界)。その点、保育園の世界は、つけっぱなしのテレビもBGM音楽もなし、そういうデジタルネット社会からはある程度、隔離されている(意図的に使う場合もありますが)とは思っているのですが、その分だけですが、それぞれの子どものもっているであろう本来の身体性が発揮されやすい環境にしやすいはず、という感じはします。

しかし、そんな環境が果たしてほんとうに過去にあったのか?というときっとそれもなかったので(幼稚園なんて昔はなかったわけですから、学校も昔はなかったわけですから)改めて何がいいのかを考えながら、試行錯誤しながら工夫し続けていくしかないのでしょう。人間の遠い過去から続いている知性と本能の長い旅は、それが知性が主導権をとりながら、それがつくり出す道具のあれこれ(文明社会)がかえって難題を創り出している(気候温暖化など)という面もあるように、情報にも両面がありそうなので、そのマイナスの側面に振り回されない落ち着いた生活で子どもたちを守ってあげたいものです。

8月14日昼食

2024/08/14

パン

鶏の香味焼き

コールスロー

オクラスープ

オレンジ

麦茶

全国大会の実践発表から(3)保育者のまなざしについて

2024/08/13

全国大会の実践発表を聞いて、かなりの部分を想像するしかないにしても、子どものそばに子どもがいるという異年齢の人的環境の関わりが起きている経験が起きていることは事実です。そしてそこに、何がどういうことが起きているのかに目を凝らしている保育者たち。こんなに組織として着目しているのか、と感心してしまいます。報告を振り返っているうちに、自分の見えている保育風景と重なってくることがありました。

子どもはやりたいことのために、それをやっていい状況を見つけ出す嗅覚を持っています。その時、周りにいる大人がいいと思っているかどうかに敏感な子どもいれば、他人の目線なり空気なりにお構いなく、やりたいことにまっしぐら、というタイプもいます。大人の顔色に敏感なのか、周りの子どもたちの言動に敏感なのか、あるいは人がいるいない、とか空間の広さや気配などに敏感なのか、それは実に色々であって、そうした傾向は見えにくくなったとしても大人になっても保持していることもあって、人間の成長や変化というものを長い目で見るときに、あまり変わりようのない基底的なものがあるなら、子どもの頃からそれにあった環境を用意してあげたいと思ったりします。

そうは思っていても、その子どもにとってふさわしい空間になっているかどうかは、実際に体験してみないとわからないので(本人も私たちも)、その様子を見ながら、こんな場所があるといいかもとか、こんなところがお気に入りなら無理のない範囲でそのままにしておこうとか、かなり融通をつけてどこでもいていい場所になっていきます。

その時に難しいのがどこまでそれを許容するか、という線引き問題が生じるという話です。きっとどの家庭でもどの園でも、どんな社会でも起きる話なのでしょうが、できるだけ大事にしているのは本人とのやりとりのあり方です。津守真の「保育者の地平」や倉橋惣三の「育ての心」などが大人の心情を満たしていることが理想的ですが、それを知らない、あるいは忙しくてそれどころではないという保育者がこの問題に直面すると、組織としての統一したルールのあるなしが問題という風に捉えられてしまうという難点が生じやすいと想像します。

もし第三者評価などの評価項目として、この辺りの標準化してルールが「ある」として用意するなら、内容はどう考えるか、という書き方になるか、かなりバリエーションを増やす例示の仕方になるかもしれません。

許されているという感覚すらないほど、あっけらかんとそこで過ごしていることが多いわけで、そこには「線」など見えないわけで、引くなら子どもと話し合って引き直すことになるでしょう。「ここね、お客さんが来るから、こっちでやらない?」とか。この辺りの対話がすんなりいく時とそうならないときとがあって、そこには小さい子どもなりに相手との相性とか優しさとかを感じ取っての反応と傾向が見られます。

同じように見える状況ではあっても、子どもによっても、大人によっても、それまでの経過によっても生成している事実はそれぞれ異なるものです。その時に感じているそれぞれの気づきも考えも思いも異なります。このような人と人の関わりの経験を保育としてどのように描き出すのか。どこに力点をおいて、その事象に適った言葉を連ねるのか。例えば「主体的」では意味が大きすぎて何もいっていることにならないとか、「選択」では結果的にそう判断しているかのように見える入り口や出口の様相でしかなく、そこの過程や揺らぎの部分が軽くなってしまう。といった具合に、言葉を使うなら、保育で起きている事実はもっと多面的に色々な姿として描き出す必要性を感じるのです。

起きていること、という捉え方自体も疑いたいのですが、そこまで考え出すと伝えるのも難しくなります。でもそのあたりのことを考えながら、子どもと接しているという日々なのです。

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