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2025年 1月

演劇を体験!それはいつもやってることだった!

2025/01/14

桜美林大学で演劇学を教えている先生がいらっしゃって「劇のワークショップ」をしていきました。具体的には、まず「演劇って何か」を、実際に体を使って体験して理解します。要するに、「見立て遊びや振り遊び」と同じです。以下の台本を見てもらうとよくわかります。

「では、次に演劇で遊びたいと思います。例えば、これ(と言ってペットボトルを出す)なんだろう?そうペットボトルです。(飲む格好して)水を飲めます。でも、こうすると(電話をかけるジェスチャー)そうそう、電話になるよね」

「今度はみんなの体で何かになってみよう。何になれるかなぁ?例えば、私は木です。みんなもやってみて。例えば木になってもいいし、葉っぱになってもいい。(後は、即興で)雨が降ってきた、ポツリポツリ、ザーザーだあ。わぁ風も吹いてきた。すごい風だ、ビュンビュン!」

こういう事は子どもたちは得意です。エンゲキするっていうのは、いつもやってることだ、とわかっていったようです。

その後で、絵本『ここがわたしのねるところ せかいのおやすみなさい』を読んであげて、その感想を共有した後「演劇で寝るところを作ってみよう」と、運動ゾーンにあるいろいろなものを使って、実際に協力し合いながら寝るところを作り上げました。

普段ごっこ遊びをあまりしないような子たちも、とても楽しそうに参加していました。

 

 

保育から「わたしの人生」を思い巡らす時間に

2025/01/14

2人から3人の先生と、半日、あるいは1日じっくりと話し合う時間を設けています。昨年12月から始めて、今日14日で4回目です。これまでに9人との会話が終りました。面談ではありません、テーマのない深め合いの時間です。これだけゆっくりと話合う時間はなかなか取れないので、とても貴重な時間になっています。それぞれの先生たちが、何をどのように感じ、考えているのか、などが今まで以上に分かり合えます。とくに同僚のことを慮る話が多いのが特徴です。

メンバーによって語りあう話はバラバラなのですが、大きなカテゴリーでざっくり区分すると、ちょっと大袈裟ですが「私の人生と保育」につらなるような話があって、同時にまた「改めて、そもそも保育とは」を考えさせられるものが語られて、そして「当園の保育」について、という3つの焦点がありそうです。職員が結婚したり子どもが生まれたり、家族が変わるようなことを、職員も保護者も分かち合う生活が保育園の特徴かもしれません。

今日はその話し合いのなかで、ある先生から「保育を考える事は、子どもと同時に自分の人生を考えることと重なっている」というフレーズが飛び出してきました。こんなことは普段あまり口にはしないけれど、実際はそういうことが起きているのが保育だと思い当たるのです。話はうまく再現できませんが、例えば3つ目の当園の働き方を話し合っていた時は、何かをどう精選するかということになり、そうすると、何を残して何をやめるかという、そもそも保育の何を大切にして、何を省略するかという判断をめぐる話に展開し、そのために、それは「私たちがどう生きることが良いのか」とつながっていくこともあるのです。

これまでの話し合いのメモをみると、「子どもの主体性」の話は「大人の主体性」と関係し、子どもの「人権」は大人による子どもの「自己発揮の捉え方」になり、その具体的な話をしていたら「領域表現」のありようになり、また今日は「探究活動」の話になったのですが、それは「ものの素材」そのものの探究と、ゴールイメージある造形とは異なるという話になり、それは保育のあり方や大人の好奇心の持ち方の見直しが必要か?といったことになり・・・といったように、話題はそれぞれのメンバーの今の関心事に引き寄せられていきます。

これらは、似たようなテーマ見えながら、話の輪郭とストーリーはそれぞれの先生によって異なります。語り出されてくる内容について、他の人も付け加わってくるのですが、まるで「保育」を語りながら、きっとそれぞれの生き方を考える時間になっていただろう、そんな時間でした。この対話自体が、保育の土壌にあたるものを耕していることは間違いなく、どの会も「時間が足りなかった。またやりたい。もっと話したい」と言う気持ちが後を引くような時間でもありました。

芝で生まれて神田で育つ

2025/01/13

卒園したり、転園したりした子たちが冬休みにやってきて、昔のように楽しく過ごしていきました。しばらく会っていなかった友達とまた共に過ごすと言う経験はどんな感じなんでしょうね。その頃の気持ちも蘇ってくるのでしょうか。子どもなりの何か新しい感慨があるのでしょうか?ともあれ、園としても、こうやって再び戻ってきてくれることは嬉しいことです。

今日は成人の日です。鈴木理生さんの『千代田区の歴史』(昭和53年発行)を読んでいると、この地が「ふるさと」になる意味について、著者は思索を重ねてきたことがよくわかります。千代田区の特徴は「江戸っ子は、芝で生まれて神田で育つ」のフレーズの中に現れているといいます。千代田区は、たくさんの人たちが訪れて、この地で育ち、その後別の地へ移動していくような場所だというのです。江戸そのものの成り立ちからして、また、戦後15年で600万人も急増した東京。生まれるより、育つ場所、そして、そこから離れていく、そういう人の方が圧倒的に多いと言うのです。

そうかもしれません。その日1日過ごしていった卒園児は、今は東京に区に住んでおらず、別の保育園や小学校に通っています。それでも、千代田区が、この子たちの故郷に違いはありません。成長して大人になった時、保育園のことを思い出してくれるでしょうか。

探究が洗練をうむような経験としての遊び

2025/01/12

藍の体験について書いた「見えている世界の向こう」というのは、決して「あの世」的なことではありません。この世のことですし、現実世界のことです。しかも感覚的なことで、超感覚的な話でもありません。色の違いへの気づきが洗練されていくという意味です。

口紅の色を選んだり、どのスカーフにしようかと品定めするときのような、あるいは指先で触って点字が読めるようになっていくようなことです。あくまでも、感覚がより細かな差異に気づけるようになっていくとういことです。

音の聞き分けにしても、匂いの違いや、味の違いもそうですね。そういう感覚や感性を磨いていくための経験とは、どんなことなんだろう? それが遊びのなかで自然とそうなっていくような遊びのあり方、探究なっていく遊びのあり方といったことです。それを考えるきっかけになるのが、藍染だろう。しかも、そのためには、よくある花や草でたくさん色水遊びをしたり、遊びの中で自然とその色の違いに気づく体験がいろいろあることが有効だろうことは、容易に想像がつきます。探究が洗練をうむような経験としての遊び。違いに気づき面白さや楽しさが起動して、より向こうの世界への侵入が深まっていくような体験です。

見えている世界の向こうに広がっているはずの世界へ

2025/01/11

見えていないものは気付けない。でも気付けば見えてくることもある。そんな感覚を子どもの探究に寄り添っていると感じることが時々生じます。色もその一つです。どうして日本人は、こんなにたくさんの色の違いに親しんできたのだろう?あの伝統色の豊かさ。身の回りの自然や植物や文化物の色を組み合わせた名称がふんだんにあって、そこに美しさを確認していく伝統が確かにあったのでしょう。

身近な花や植物を潰して色水にして楽しむ遊びは、保育園でも「色水遊び」という言い方をよくしますが、自然が生み出している色と光を、子どもの楽しい遊び体験にしているかというと、ちょっと違うのです。

当園では絵の具や色紙などの色から入っている遊びが多くて、絵の具を溶かした「色水」の混ざり合う遊びは、春から夏にかけて、盛んにみられるのですが、そこで生まれる色と、花や草などの自然物が作り出す「色」の世界への気づきは、大きく違う気がします。生活の中で出会っている世界は、もっと未知の開かれていると言えるのかもしれません。具体的な環境としてはモノや空間なのですが。

ちょっと大袈裟な話すぎるかもしれませんが、私たちが感じている世界は、私たちの感覚や感性から届く範囲でしから捉えられておらず、その「見えている」と思っている世界の向こう側には、もっと広くて深くて(なんと形容していいのかわかりませんが)驚嘆する世界が広がっているかもしれません。見えていないから「ない」と思っているに過ぎないのかもしれません。保育ではそれを「センス・オブ・ワンダー」をキーワードとして、語られることが多くあって、いろいろな世界への誘いのキー概念になっている気がします。

美味しさの違いがわかる味覚、嗅覚が発達している動物の話、人間には聞こえない音をきくコウモリやイルカの話、点字が読めるようになる触覚の発達、自身の身体に敏感な固有感覚、そういったことを思い浮かべると、「見る」という多機能に思える視覚の一つに、明るさや色合いの違いを区別する感覚が、洗練されていく体験がきっとあるに違いないと思えます。その違いの宝庫は、身近な自然のなかにあるでしょう。

その誘いは絵本でも図鑑でもたくさんあるし、それを物にして表してきた伝統的な品々にあるはずです。それを子どもの遊びにどうやって取り入れていくか。藍を育てたりする活動と同時に、すぐにでもできることがいろいろありそうです。ポイントは大人側の側への関心でしょう。子どもへの「感染源」としての大人のあり方なんでしょう。子どもが教えてくれることもあるし。それもまた楽しいです。

藍染の「藍」を保育園でも育てます!

2025/01/10

昨日9日(木)の午後、年長組すいすいと年中3名の10人で、藍をいただいてきました。植物の、あの「藍染」の藍です。場所は柳森神社です。

よくいく神社のこんなところに藍が育っているなんて、知りませんでした。育てているのは「神田藍の会」で、その代表の峯岸由美子さんが案内してくださいました。

峯岸さんによる案内は「どこにあるかなあ?どれが藍だとおもう?」というクイズから始まりました。

私もわからず、キョロキョロしていると、ヒントがでます。よくみると下の方が藍色だよ、とか花が咲いているよ、という大サービスで「これだ!」と当たりました。あとで気づいたのですが、ベンチの上にちゃんと札がおいてありました。

ひとりずつ葉っぱをちぎり、「くしゃくしゃ、もみもみ」して白い画用紙に「ずりずりしてごらん、ほらこんなふうに」と促されて、みんあやってみます。緑色が簡単に紙に乗ります。染めるという意味がすこしぼんやりわかってきたかも・・・。

そのあと、ハサミで一本ずつ枝葉を頂戴して、今度はタネを虫眼鏡で観察しました。「これを保育園に持って帰って、しばらく干してから、たくさんタネを集めてください。そして春になったら植えて育ててくださいね」。

しばらく乾燥させると、緑色の葉が茶色くなって、タネを収穫するそうです。植えるとプランターで育ちます。そして増やして葉っぱで染色してみます。

この活動を応援して、またFM放送等でも紹介してくださっている星野晃一郎さんからも、群青色の話などについて、子どもたちにメッセージをいただきました。近所に引っ越して来られたそうなので、何かとお世話になるかもしれません。よろしくお願いします。

最後に「どんな色になると思うかな? これかな?これかな?」と、峯岸さんは持参したスカーフを見せながらクイズです。「答えはいいませんから、どんな色になるのか、楽しみにしてくださいね」。

とても温かい地元の方々と出会えました。卒園された町田さんからの紹介です。江戸文化の面影が随所に残る千代田区神田ですが、また一つ、素敵な「地域の文化財」が見つかりました。

石に色を塗って遊んでいたら・・

2025/01/09

石に色を塗りたい!今日はこの希望に忠実に従って始まったのですが、まったくゴールは見えません。ひたすらそこから偶然に起きていくことを楽しみ、たどり着いたものが結果的に、カラフルな石でできた「バランス積み石」のようなものができました。

発端は本人も私もよく覚えていないのですが、私には「色遊びの素材の世界を広げてあげたい」という漠然としたイメージしかありません。そこで、先日、丸いツルツルした石を手に「これに絵の具で塗りたい」と言ってきた子がいたので、アクリル絵の具で今日塗ってみたのです。どういうわけか、色のイメージが先に決まっていて、先日から「緑」と言っていました。すると今日は、緑と白を混ぜて、塗り上げたのです。

それが面白かったのか、もっとやりたいから、石を拾いに行こうということになり、園庭代わりの「佐久間公園」へ出かけて、本人が「いいな」と思ったお気に入りの、大小さまざまな石を拾ってきて洗って乾かしました。

(食後は柳森神社で「神田藍染の会」の方に、藍の枝葉をいただきました。その話はまた別の機会にします。)

間食のあとで乾いた石に絵を塗って遊びました。いろいろな色が偶然にできるのが面白く、私も一緒に描いて楽しみました。石に塗る前の、色作りの段階でいろいろなことを試し、混ざっていく色の変化が、じゃあ、こうしてみたい!を引き起こしています。

そんなことを繰り返しながら、塗る石もなくなると、そして最終的には、いろんな形と色の石を並べはじめ、そこでこんな遊びをし出したのです。

それは石を積み上げ出したのです。

すると、どうでしょう!なんともいえず、綺麗なんです。石のコラージュ遊びのような感じです。クライミングのように積み上げて、きゃ〜落ちた!とかやる面白さもあります。乗せて並べる「通り」はまさしく無限です。いろんな乗せ方、滑り落ちない角度を探したり、バランスをとったり・・。最後は綺麗な箱に入れて、一つの遊具セットのようなものが出来上がりました。

まさか、こんな遊びの「ひと段落」(終点ではなく、また何かの起点になりそうだから)があるとは思わなかったので、ちょっとした満足感があったようで、担任に促されて、他の子どもたちに見せて、一緒に遊んでいました。もう夕方になって、朝からずっと続けてきた遊びを振り返るうちに、子どものやりたいことを徹底して満たしていくと、何か面白いことが立ち上がってくる感じがします。

そこで生まれる「ひと段落」は、決して当初からイメージしていたものとはズレており、思わずたち上がってくる面白さや美しさなどの「お、いいな」なんです。それが世界の既知から未知への端緒となる印と窓になっていて、そこにみつけた世界の扉はどうしても開けたくなっていくのですが、それを探究といってもいいのでしょう。

こんな1日を振り返ると、昨日に続き、無藤隆先生が4日のfacebookに書かれている「世界への関わりの感触を探ることとしての柔らかさ」が思い当たります。この「柔らかさ」が、子どもと石と色の関わり方が広がっていくことに通じるのかな、と思います。定まった目標どおりには事は運ばず、他の目標や道筋が増えて、結果的に豊かになっていくという世界との出会い方です。以下の文章です。

<・・・柔らかさとは感触の生起と共に起こる世界への関わりの広げ方であり、深め方である。それが主体と対象のモノとしての繋がりの「間」として起こる際のあり方なのである。遊びとはその柔らかさに固執し、その固執を味わう過程である。それは揺らぎながら、その感触のささやかな陶酔をもたらし、そこからの関わりの進化と逸脱を起こしていく。>
ちなみに、その前のすべての文章をぜひ読んでいただきたいので、後ろに全文もご紹介しておきます。
○柔らかく世界に関わる
 子どもがまわりの世界と関わる。そこが遊びであるということは有用性から解放されているということであるが、有用性とはその周りにあるもの(人でも何でも)が特定の機能を与えられ、それに応じた関わりの活動をそのための道具として見なす関わりのことである。それは常にそうなっていくという点ではありふれた良くあることなのであり、その目標志向性は生得的に近いもののはずである。だから、関わるあり方の一つとして目標志向性と道具的関わりが生まれることはむしろよくあるので、それは遊びと両立し、言い換えれば世界の流動性の中に起こることである。
 だが、その道具性はこの世界の中で起こるものである限り、実はもっと微細な手加減により支えられていて、単にボタンを押せば始動するというものではない。(ボタンによる始動とはブラックボックスに対する外部の指示であり、それは世界への関わりからの疎外である。)道具を使う巧みさとは、そこでの道具が世界の中にある対象へと焦点化しつつ、その周りの状況のあり方への配慮を行う中で可能となる。その感触の感覚的探りを不可欠なこととして組み込みつつ、道具は機能する。
 その手触りはしばしば当該の対象=道具関係からはみ出すところへの気付きをもたらし、焦点をずらし、広げるだろう。そこに気付くことがむしろ関わりを深めることがあり、それがさらなる集中へと向かわせ、同時に逸脱を引き起こし、単に目標の追求から離れることもあり、追求を複雑化することもあり、目標自体の豊富化をもたらすこともある。
 同時にそこに気がそれることも起こるのは世界の雑多で流動的なあり方から半ば必然であり、それがむしろ活動のいくつもの重なりを作り出すことにつながり、新たな活動の可能性を見出させる。そこに多くの偶発性が起こり、活動の雑多性を高めるが、それが記憶との相互作用を起こして、あるいは離れたところにある何かとの繋がりを喚起して、新たな活動の流れを引き起こす。
 そこでの繊細な世界への接触を柔らかさと呼びたい。感覚の多様な広がりのある接触であり、意味以前の感触を探るあり方である。その関わりはそれを通して世界への目標志向性を分節化する一方、新たな関わりの可能性へと開いていく。その感触は常に対象と主体側の身体との触れ合いでもあるので、そのモノとしての繋がりを作り出しつつ、それが接合し、その境にあって、まさに境の間に起こる揺らぎを伴った活動をそこから生み出す。
 このようにして、柔らかさとは感触の生起と共に起こる世界への関わりの広げ方であり、深め方である。それが主体と対象のモノとしての繋がりの「間」として起こる際のあり方なのである。遊びとはその柔らかさに固執し、その固執を味わう過程でである。それは揺らぎながら、その感触のささやかな陶酔をもたらし、そこからの関わりの進化と逸脱を起こしていく。

あのね、こんどはこんなことをしたいんだけど・・・

2025/01/08

年長のHちゃんが、「あのね、〜ちゃん(自分のこと)ね。・・・」と、やりたいことを、いろいろ話をしてくれます。そんなとき、話している内容もそうなのですが、これだけ私に話したいと思って、そうしていることに「ああ、子どもたちが生き生きしているなあ」と感じます。そういうこと、ありますよね。そういうとき、子どもって自由でいいなあ、と思うのです。

彼女のその話は、意味だけを追うと「こんどの実験や制作遊びでやってみたいこと」という話なのですが、途中でコーラがでてきたり、粘土が出てきたりして、自分で話しながら「あ、そうだ」と思いついたことを付け加えたり、話が別のことに飛んだり、つながったりして、そこに一つの新しい事態が生まれては変化していきます。

話されている内容や意味が変わっていくということもあるのですが、そこで想像しながら、ある新しい物語が生まれていくような、<話す><聞いてもらう>という行為事態が、意味も意味以前のことも含めて、そこに何か新しいことが生まれていっているという感じがして、「わあ、躍動している!」という生命力が伝わってくるのです。

年の初めのファイスブックで、無藤隆先生の「創発的なダイナミズムのある活動としての遊び」という文章の最後のほうに、こんな全体の要約がでてきます。これを読んで、私が感じたHちゃんの「生命」の躍動感は、私との対話が一つの波紋を作っていたのだなあということを思い浮かべます。

<・・・遊びは個としての生命性のあり方からの開始が他の個としての開始と混じり合い、偶発的な動きを孕みながら、世界の関係の再構成として進み、そこに置いて意図と意志とが事後的に構成されつつ、それが記憶としての蘇りが起こる中で、個としての主体的関わりが創発的に生まれるのである。>

抽象度の高い言葉ですが、保育(に限らず世界)で起きている事実がぎゅっと濃縮されて表現されています。ここでいう「個としての生命性のあり方」もまた、それ以前からのつながりの中での、仮の開始でしかないのでしょうから、私との間で生まれた対話もまた、生まれては消えていく創発的なものです。それでも、そこで事後的に構成された意図と意思から生まれた「今度の実験遊びのプラン」は、実際の活動で生かされていくことでしょう。

1月8日昼食

2025/01/08

ごはん

鮭の西京焼き🐟

切り干し大根とツナのサラダ

ほうれん草と人参のすまし汁🥕

オレンジ🍊

麦茶

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