先日、園のある先生と「保育者は何を目指すべきか?」「保育者の役割は?」という話になりました。そのとき私の頭に浮かんだ答えは、3つありました。ひつは子ども、保護者、保育者、家庭と園の環境の4つを俯瞰的に眺めたときの役割と専門性、もう一つは子ども一人ひとりが異なる発達の理解と必要な援助の内容を想定できる力、環境の再構成もここに入ります。そして3つ目が、ほかでもない「その子ども」との確かな心の通い合いです。これが保育者になる意味です。
この3つ目の心の通わせ方は、前後の時間を気にしないで没入するような一定の時間が必要で、濃密に共に過ごす中でしか共有できない「喜びのエール」が起きるような「生きた時間」です。その質感は、一人ひとりの子どもとの間にある確かな手触りであったり、ゲラゲラと屈託のない笑い声が伴ったりします。
1つ目や2つ目はまず頭で理解することから入っていって、子どもに出会う筋道なのですが、3つ目の子どもとの過ごし方は、集団を相手にしたり、「次はこれをやるからそれまでにこれを」といった段取りが頭を占めている時には、まずできない接し方になります。
直線的な時間の流れの中での「今」ではなく、その前後関係を無視できる状況が保証された中での「子どもの時間」です。そんな時間は子どもの根源的な何かが噴き出してくるので、保育者はある意味で覚悟が必要です。汚されたり蹴られたり水をかけられたり酷い言葉が出てきたりしながらも、それがルールや決まりなどの次元を超えて、心底「笑う」「楽しい」「嬉しい」という中に深くのめり込んでいくような「子どもの時間」です。
思い起こせは、本当の意味で心を通わせているな、と思える瞬間が、ちょっとだけ色々あった12月のお楽しみ会後の、この2週間でした。それは束の間の一瞬で終わってしまうことが多く、また直線的な段取りの時間に掬い取られてしまうのですが、それでも「さっき、そこが楽しかったよね」という確認と「またね」という同意だけはとって、お終いにしていくような瞬間です。
例えば、運動遊びで「波がやってきました」と大声で教えてくれるHくん。私の胸に馬乗りになってから「(転覆は)まだだよ!早く出発して」と、船が転覆する瞬間までのドキドキ感をできるだけ味わいたい一心のNくん。顔は見えないけど、私のお腹の上を思い切り足で踏みつけながら、堪えているのに我慢できずに笑い声が漏れているKくん。あるいはサンタクロースが持ってきてくれた五味太郎の絵本を読んでいて、家の窓から見える姿から「ネズミかな?」と思ってページを開くと、違っていたという展開が可笑しくて、なんども戻っては繰り返すように求めてくるHくん。またこんな受け取るメッセージを感じることもあります。「美味しかったよ。ありがとう」の気持ちを確認したくて、それを聞くことが嬉しいから、お菓子を先生食べてみて「美味しかった?」と何度も確認したい気持ちを見せてくれるMちゃん。これらのどの子たちに、共有した思いがあります。
「もっと深く付き合ってよ。まだまだ足りないよ」
これにどこまで、私たちが応答できているか。その深さが問われていると思えてならないのです。時間を気にしないで、周りの目を気にしないで、もっと自由に遊びたい! その満足する心の底は、心の海のずっと深いところにあるのに、浅いところからすぐに浮かび上がらざる得ないような潜りにも似た、表面的な遊びと対応。次のことが待っていることへ急がされる時間。
3番目の遊びを、心の通わせ方を、再認識して保証すること。これは極めて大事です。しかし、そのために必要な職員配置になっていない制度の限界もあります。私の仕事はこれを突破しないといけないことです。なぜなら、この「養護の働き」が満たされて初めて、子ども自身が動き出すことができるからです。ちゃんと受け止めれば、手を離しさえすれば(ハンドオフ)子どもから離れてやり出すに決まっているのです。海の底にちゃんと足がついたら、子どもは底を蹴って浮かぶのです。子どもを信じるというのは、この心の海には底があることを信じることです。これが見守る(ハンドオフ)という意味でもあります。