テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。
せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。
「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。
これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。
もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。