◆天体の法則と人間の法則
私のカレンダーには、月の満ち欠けの図が載っていて、「今日のお月様は下弦に入ったな」とか、25日が新月か、などがわかります。すると、今時分にはあの辺りに月があって、太陽からの光をこっちから受けて半分輝いているんだな、といったことを思い浮かべることができます。今、見ているわけではないけれど、きっとそこで輝いている、と確信できて、確かめれば実際にそうなっています。
ところが、子どもの心は「きっとこうかな」と想像してみて、「当たった!」という結果になることもあれば、「あれ、そうなんだ!」と意外なことになることもあって、それが面白いものです。子どもを理解するというのは、映像に映っているものがその子の姿ではなく、その姿の中にある心の動きを捉えなければ、人を理解したことにはなりません。月がどこにあるかを理解することと、子どもを理解することとは、雲泥の差があります。
◆食パンを私に「どうぞ」4回
規則正しい「天体の動き」と、子どもが見せてれる子どもの「心の動き」の違いを語りたくなったのは、今日、第三者評価のために、ある保育園を一日、訪問調査をしていたからです。その園の1歳児クラスのままごとゾーンに座って、そこの女性の園長先生と話をしていたら、ある男の子が、おもちゃの食パンを持ってきて私に差し出すので、「ありがとう。いただきます」と言って、もぐもぐ、わあ〜美味しい!とやったら、それなら、と今度は、ハンバーガーを持ってきたので、「あ、おいそうなハンバーガーだね、でもお皿が欲しいな」と言ってみたら、そそくさとお皿を持ってきて乗せてくれたので「ありがとう、もぐもぐ、アッチーチー!」と大げさにやってあげたら、もう、その子は喜んで、次から次へと食べ物を持ってくるので、丸いテーブルの上は食べ物がいっぱい並んで「まるでパーティみたいだね・・云々」と色々喋ったり、食べたり、お代わりしたり、注文したり・・・そのうち、別の4人のお友達も集まってきて・・と遊びは発展していきました。最初に食パンを出してくれた子は、都合4回も私に食パンを食べさせてくれました。この子はきっと朝はパンに違いない・・・
◆子どもと過ごしてみて想像できるようになること
もし、この状態のまま、その子どもたちだけがいなくなったとしても、そこに居合わせた私は、テーブルの上の食べ物や食器の数々を見て、そこで遊んでいた子どもたちの姿を思い浮かべることができます。今日、初めて出会ったあの子どもたちが、嬉々として遊んでいる光景をありありと思い浮かべることができます。あの子らと言葉と身体で、心を通わせてきたからです。
保育園での子どもの生活を知ることは、実際に子どもと過ごしてみると、分かることがいっぱいあります。一度一緒に過ごしてみると、子どもの姿が見えなくても、その子の心の痕跡をたどることは難しくありません。保育者はまるで考古学者のように、その痕跡から「きっとこうだったのかな」と想像することもできます。それも楽しいのです。
◆映像に残らないものを「見る」ことの大切さ
同じような意味で、写真や動画に子どもは写っていなくても、分かることがあります。例えば、わいらんすいのブログで紹介されている写真、いらなくなったコピー用紙らしきもので作った銃のようなもの、丸めて一方が尖った細長い、錐柱のようなものが残っています。そこには子どもの姿はないのですが、子どもの心が動いた証拠が歴然とあります。
考古学者は、中央アジアから出土した鉄器が、摂氏1200度の高熱で溶融しないとできない純度だとわかったことから、そこに高度な文明があったことを明らかにしていきます。それと同じように、銃の形、円錐の形、テープの切り方、LaQの形から、そこに至る子どもの「造形思考」の発達を読み取ることができます。これは幼児でないとできないこと、子ども同士の遊びがなければ、それを作る動機がないだろうこと、日頃から丸めたり折ったりセロテープの技術に慣れていることがわかります。日頃から何をして遊んでいるかを知っているから、読み取れるコンテキスト(文脈)というものがあるのです。
◆子どもが味わっているモノづくりの楽しさ
冒頭の写真のように両手が伸びた怪獣のようなものの造形力は大したもので、相当の時間をこの小さな造形パズルと粘土造形の遊びを経ているだろうこと・・・想像できます。この集中力や根気を大人が真似できるかどうか。相当なものです。このように子どもが再現しているものは、子どもが目の前に写っていなくても、あるいはたとえ映っていたとしても、「見ようとしなければ見えないもの」に属します。
また、子どもが作っているこれらの形は、具体的な何か(銃や鉄砲やラッパや怪獣・・)を「再現」しているだけではありません。ある明確な形をイメージして作り始めただけではなく、作りつつある形が別のイメージや感覚と結びつき、あるいは別の着想を引き出し、「なんでもないもの」から、「なんでもあるもの」へ発展しているプロセスが見られます。そこには不明瞭なものが輪郭を持ち始め、明瞭な境目(文節)を持って立ち現れるモノに、子ども自身が予期せぬ仕方で出会っているのかもしれません。
◆ホモ・ファーベルの私たち
もしそうなら、子どもは面白くてやめられないでしょう。創造すること自体を体験しているのですから、こんなに面白いことはありません。文化の文節を作り上げることは、言葉に限らず、絵や音楽でもアーティキュレーション(明瞭さ)という言葉で大切にされているものです。これができるのもホモ・サピエンスの特性です。私たちはホモ・ファーベル(ものを作る人、アンリ・ベルクソン)という異名も持っているのわけですから、不思議なことではありませんね。
(余談ですが、もし幼児に早期教育をさせたいと思っている方がいらしたら、これが本物の早期教育だと理解していただきたいのです。小学校教育の先取りをしても意味がありません。今の時期にしか伸びない適時性を踏まえた体験が大切です。あくまでも「例えていうと」ですが、こういう遊びをちゃんとやっておくことが「ハーバード大学」での学びに結びつきます。地頭が育ちます。)
このような創造することの真っ只中を思う存分に過ごせる時間があると、子どもはとても幸せです。それをたっぷりと吸収して栄養にしておくことが、この時期の子どもたちに必要なものです。