(写真は新宿せいが子ども園の成長展から )
◆もっと大切にしたい内面の表出
子どもの絵について、発達の段階を知っていることは、結果として見える描画発達のパターンを知っているに過ぎません。首が座り、頭をもたげることができ、寝返りができ、ずいばりかハイハイができ、人見知りが始まって、初語が出る頃に指差しがあって・・このような発達の特徴を学ぶことは大切でも、それで終わったら、一人ひとりの心の動きに迫るものではありません。例えば「おすわりができたら、視線が高くなって見通しが良くなって、お座りをせがむようになる」という発達の特徴を知ると「どんな風に見えていて、それがいいと感じているんだろう」と、その子が見えている風景、その時の喜びを知りたい、共感したいと思うきっかけを得ることができるのです。人見知りで泣いたら、可哀想ではなく「おうちの人と他の人の区別がつくようになったんだな」と喜ぶことができます。それと同じことが子どもの絵にも言えます。
◆かかれた産物(作品)からだけではわからない
子どもの絵は、小さい時ほど何を描いているのかわかりません。ぐちゃぐちゃに見える線や点や色が「ママ」だったり「パパ」だったり、します。あるいは自動車やイチゴかもしれません。子どもが頭の中で思い描いていたものが、絵から想像できるとは限らないので、言葉が話せるようになっていて、側で先生が見たり聞いたりしていたら、それが何を描いていた「つもり」なのかを知ることができるかもしれません。そこが面白いと思いませんか。
そういう意味で、大人が描いた絵には、子どものような特徴は現れません。1歳から2歳ぐらいの子どもの線は出ません。一見子どもが描いたように見せて描いた絵であっても、子どもの絵のような無邪気さは出ません。ですから大人の絵はその文化の発達、文明の発達に位置づくのです。現代のメガネをかけている私たちは、そこから束縛を受けているのです。平安時代の絵巻や地図が遠近法になっていないから、今見ると不思議な感じがしたり、パウル・クレイの絵が子どもの描画のように描くために念密な計算と高度なスキルを必要としていることを想像してみてみましょう。
◆子どもの絵(結果)から見える過程
子どもの絵を出来栄えで見ないでください、とか他の子どもの絵と比較しないでくださいというのは、正確に言えば、子どもに絵を、そのように見ることは、そもそものできないことだということがお分かりいただけたでしょうか。何を描いているのかわからない、それが当たり前で、でもそこに歴然とある発達の特徴から想像できる子どもの身体的、精神的、社会的育ちを見て取ることができ、さらにその時に、子どもが何をどう感じて楽しんで描いたのか、そこに共感の眼差しを注いでいただきたいと願っています。子どもの絵はそこに至る成長の過程を雄弁に物語っているのです。