「とにかくABCから考えよ」という言葉を20代で教わりました。最初に就職した会社の直属の上司からです。どういう意味かというと、もっとも基本的なことから始めなさい、ということです。「まずは、第1ページ目から始めよ」「そもそも、何が起きているのか」「最も基本的なことから考えよ」「最初に一次情報に当たれ」「どうしてそう言えるのか、根拠は何か」「裏を取ったのか、事実だとどうしてわかるのか」ー。
この考え方を子育てに当てはめると、困ったことに直面します。どこからが第一ページ目か、何がABCのAなのか、はっきりさせることが一苦労なのです。たとえば、私たちは、幼稚園教育要領や保育所保育指針に「そう書いてあるから」を根拠にして仕事をしていると思われがちですが、正確にいうとそうではありません。もっと普遍的なものを根拠にすることを目指してきました。少し説明します。幼稚園教育要領や保育所保育指針は約10年ごとの改定で記述がなくなったり、新しいことが加わったりします。
自然科学の世界では、そのようなことはありません。10年たったからといって、数学や物理学の法則が変わるものではありません。三角形の内角の和は180度であり、重力波と光のスピードは同じです。また化学や生物学や地学の知見がそうそうに変化するものではありません。新しい性質を持つ物質が新たに作られることはあっても、原子の種類と構造は変わりません。(だだ、原子力はここをいじりました。アインシュタイン晩年の最大の後悔です)この世界の摂理に、自然物としての人間も支配されており、人間がそれに影響を与えることは基本的にはできません。(ただ、クローン人間がどうなるかです。遺伝子操作、アンドロイド等の問題など)人の誕生と死は自然の法則から逃れることは「ほぼ」できません。(ただ、古代から人は不死を望んできましたが)ですから医学は自然科学の知見を基盤にしています。ノーベル賞はこの分野しか基本的には対象にしてきませんでした。
社会科学の世界では、経済学、法学、歴史学、人類学、心理学、教育学、宗教学など、集合体としての人間社会を扱うので、過去から未来までその中に見られる法則性を見出し得ます。でも、その知見は自然科学ほど確かではありません。時代の変遷や地域によって変わってくることが多いので、もともとノーベル賞の対象にはなりません。経済学賞と平和賞がありますが、これは組織も選考の仕組みも位置付けが異なり、いわば例外と考えられます。
さらに「普遍的で科学的な法則性はない」と思われているのが、文学や芸術、アートの領域です。一般に使われる言葉としての「サイエンス」と、最も距離がある世界だと言えます。しかし学問的には人文科学として、研究の対象になっています。何かが明らかにされるという意味では、学問が成立します。人間の内面、個人的な世界に深く入り込む世界です。それが虚構であろうと幻視者であろうと、人間の精神的な豊かさに貢献しています。幸せに生きる上では、最も魅力的で、精神の自由のためには、最上級に価値のある切実な分野だとも言えるでしょう。こちらもノーベル文学賞がありますが、他の分野と比較すると、村上春樹がいつ受賞するかという文化現象を見ても、その性格の違いがはっきりします。
実は、保育はこの三分野が交差する領域なのです。健康や保健や養護は、自然科学を根拠とします。生命の保持はもちろん、生活のリズムや睡眠の大切さ、栄養学、感染症対策などは、自然科学(ナチュラルサイエンス)からの知見の応用です。「意欲」の発達の根拠は、ここにあります。
また子ども同士の関わりの大切さ、自由遊びの本質、優しさや異年齢集団の育ちなどは、社会科学の知見が有効です。伝統的社会に根ざしたアロペアレンティングや赤ちゃんの社会性などの提唱は、文化人類学や進化論、発達心理学などの知見からです。「思いやり」の発達の根拠はこちらです。
そして、一人ひとりの子どもの心の動きを大切にしていることは文学と同じです。短歌、和歌、ポエジー、その子の内面、自分らしさ、子どもの100の言葉、個人的人権の尊重、生命の尊厳といったテーマは、まさしく保育の根幹をなしています。「自分らしく」の根拠は、こちらです。
第一ページ目から保育を考えるとき、そのAtoZは、広い意味での「サイエンス」つまり、人文科学、社会科学、自然科学という、学問の三大分野という分厚い本をめくることが必要なのです。どこまでが明らかになり、まだわかっていないところがどこなのか。それを明確にしながら、保護者の皆さんと一緒に、子どもの育ちを支えていきましょう。