MENU CLOSE
TEL

園長の日記

自分のことを知る権利としての検査

2020/05/09

やっと真っ当な考え方を裏付ける研究が公表されました。この考え方は「自分らしく生きるために必要な当然の権利」だとも思います。それは自分自身のことはよく知っておきたいし、その事実に基づいて何かを判断したり、どう行動するかも選択できたりすること、一言で言うと、「自分がどうするかは自分で決めたい」ということです。

九州大学の小田垣孝名誉教授が公表しました。こんな試算です。スペインかぜの解析モデルを改良したそうです。接触を減らすよりも検査数を増やした方が、新規感染が早く減るという試算です。

試算はびっくりするほどの数字です。

新規感染が10分の1になるまでに、接触を8割削減しても検査数が今のままなら23日かかるのに対して、接触を全く減らさなくても検査数を4倍にすれば、8日で済むのです。

 

私はきっとそうだと感じます。陽性だとわかったら自ら「隔離生活」を選択できます。そこで人との接触がすぐに絶たれるのですから、うつす可能性が即ゼロです。でも検査が増えないなら、陽性なのに元気な人が移して回るからです。

 

もう一つ、私がずっと疑ってきたことについて、こう考えるとスッキリする結論を得ました。なぜ日本はPCR検査を増やして欲しいという声が国民から増えないのか、ということです。ずっとどうしてだろうと考えてきたのです。世界の防疫戦略はそれを手に入れようと動いているのに、なぜ日本は意図的にそれを目指さないのか。政府の問題とは別の次元で国民性として何か理由があるんじゃんかと、疑ってきたのです。それがわかりました。

 

私はその理由ははっきりしてきました。それは、自分のことは自分で決めたいという「自由に生きる」ことについての人生哲学の差です。自由を戦って勝ち取ってきた歴史の差です。与えられる自由に慣らされている日本人には、分からない感覚なのかもしれません。死に至る可能性のある病気に、自分が感染しているかどうかをはっきりしたい。それを知ることは、生命追求の権利です。生きる上で最も基本的な権利ではないでしょうか。生きるか死ぬかを自分で決めたいという意識の差。

検査して、感染の白黒をはっきりすることで、本人の行動が全く変わるのです。

ちょっと長くなりますが、こんな話です。

それは昨日8日、あのマスクが保育園にも届きました。そこで考えてみました。みなさんマスクをしていますよね。どうしてでしょうか? 移されないようにですか? このマスクで防ぐことができると思いますか。これで「防げる」と考える方はいないでしょう。まるで子供用サイズです。装着しても隙間だらけで、どこからでも鼻や口から入ってきます。ウイルスの大きさはこの素材ではすり抜けてしまいます。細菌でも通すでしょう。外からウイルスが入らないように防ぐためのマスクではないことは確かです。

顔に対して小さいことを揶揄してはいけません。きちんと批判しましょう。このマスクで防ごうとする意図は正しいけれど、他の方法を選択して欲しかったと。

では、マスクをどうしてするのか。安倍首相が装着し続けています。それは国民に「既に自分は感染者かもしれないと思って欲しい」からです。人に移したらいけないから、マスクをしましょう、という話になっているのですが、この考え方をどう思いますか。

この考え方を受け入れる自分というのは、何を根拠に従っているのでしょうか。

もしこれが結核だったらどうしますか?あなたの隣にこんな人がいると想像してみてください。

「私は結核かもしれないから、周りの人に移したらいけないと思ってマスクをしているんです」

こんな話、冷静に聞くことができますか? こんな人がそばにいたら「あなたは偉いですね、見習わないといけないですね。それが医療崩壊を防ぐために必要な懸命な行動ですね」と言えますか。とんでもないですよね。「早く病院に行って、結核かどうか、診てもらいなさい」と勧めるのではないでしょうか。そして「早く検査してもらって、本当に結核だったら、こんなところにいないで、本当に移さないように入院するか、家で人に移さないように、用心して療養してください」と、勧めるはずです。まずは検査でしょう。

 

実は自分が「陽性」だとはっきりしたら、他人に言われなくても、本人も生活の仕方が全く変わります。マスクをする、しないなんてレベルの話ではないのです。自分から隔離生活を積極的に選択するのです。一方「陰性」だとわかったら、ホッとしてマスクをする必要性をあまり感じないで生活できるのです。一緒に住んでいる家庭内の人がみんな陰性だったら、家庭内感染の可能性がなくなるのです。もちろん、外から持ち込む可能性があるから、そこは気をつけるでしょう、その時初めて、三密を避ける意味が、くっきりとわかります。本気で警戒するでしょう。

そうなら、みんなが検査を受けて、誰もが自分が「陰性です」とはっきりしている人ばかりになってしまったら、どんなに楽でしょう。ほとんどの人が「陰性です」とわかり合っている人だったら、マスクはいらなくなるのです。そういう状態を目指した方が、自分で自分の行動を決めることができるのです。陰性だとわかっている人、陽性だとはっきりしたで、自分の行動を選択する。それをはっきりさせるためには、自分が怪しいと思った人だけではなく、自分が不顕性感染者で、元気でウイルスをもっているのが自分だったということに早く気づくことにつながります。そうした方が効果が早く、早く経済活動を開始できる。すごくわかりやすいと思うのですが。感染率が低いうちに、徹底的に検査した方が効率もいい。ただし、監視社会は絶対に避けないければいけません。自らの行動をコントロールするのは、自分自身です。

この考え方に勢いを増すのが、実は自分のことを知ること、本当の教育の原理です。学校教育で伝えなければならない教育の本質です。学業が遅れるという量の問題ではなく、自分が本当に知りたいことを知る権利と方法。学びたいことに正当にアクセスできる学びの権利です。CPR検査や抗体検査を増そうという主張と、教育を受ける権利は同じ地平のテーマなのです。

 

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

日本国憲法第13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利と公共の福祉」の文言です。「最大限の尊重を必要とする」とはっきりと、守られているはずなのですが・・・

でも今日、届いたマスクの説明書きには、こう書いてあります。

「人と人との接触を7割から8割削減することで、感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさることができます。どうしても外出する必要がある場合には、既に自分は感染者かもしれないという意識をもっていただき・・・」

血税数百億円も使って、こんな1世紀も昔の防疫戦略を国民に押し付けていいのでしょうか。まるで結核蔓延の時代ではあるまいし。なぜ、検査を増やさないのでしょう。私たちはマクロな調査データを欲しいのではないのです。学者ではないのです。ただの生活者です。マスコミが流し続けてきた理屈は、昔ながらの感染研の発想です、国が国民の感染は「調査して減らしてあげますから」という統治する側の理屈でしょう。

そうではなく、自分のことは自分で決めたいから、自分のことを知る権利を行使するべきなのです。なぜなら、自分と家族が、ひどい病疫に犯されているかどうかを知ることに、どうして遠慮が必要なのでしょうか。それをお互いにわかりあうことが、それぞれの個人が自分で賢明な判断ができるようになり、茫漠とした見えない人と人の接触の可否を判断できるようになるでしょう。

マスクより知る権利を!

イベントを中止しなくてもいい方法を支えていく発想。その一つが、きっと検査で白黒はっきりして行くことではないのでしょうか。ワクチンができるというのは、同じ結論に行き着きます。ワクチンを受けたら、私は「陰性です」という通行手形を得ることに等しい。そして、今はどう考えても今、大多数は白です。

1億2千万の日本人にすべて検査するのは不可能ですし、またその必要はないのです。医療や福祉、教育、物流、サービス業など幅広いエッセンシャルワーカーを最優先に検査していく体制を作り、集まらざるを得ない活動に参加するときだけ、誰もがマスクをする。その時だけ、移されないような高性能のマスクをし合う必要があるんじゃないでしょうか。これから必要な「新しい生活様式」と一見、行動する姿は同じですが、その背景と目指す生き方に関する哲学は全く異なるのかもしれません。

top