久しぶりに、ここから学び直そうとする姿勢にちょっと感動したので、その時のことを書いておきます。彼は優秀な「リフレクティブ・プラクティショナー」なのですが、さらにその意味を自ら問いかけなおそうとしていることことが、素晴らしいのです。
The Reflective Practitioner ーこの言葉は1983年、今から37年も前に書かれた書籍のタイトルです。日本語に直訳すると「省察的な実践家」となります。reflectiveを省察的と訳すか、反省すると訳すか、振り返ると訳すかでニュアンスは異なりますが、名詞はReflection もちろん語源は反射という意味の言葉です。いずにしても、省みる実践者ということです。しかしTheがついているので政治家とかと同じように「実践家」というニュアンスになります。これを書いたのは当時、MITにいたロナルド・ショーン(1931〜1997年)です。日本には佐藤学さんが2001年に秋田喜代美さんと共に訳して日本に紹介しました。
本は『専門家の知恵』(ゆみる出版)と訳されたので、タイトルだけでは焦点がぼやけてしまったきらいがあります。もしかしたら「専門家なら知恵があるに決まっている。その内容を紹介でもしたのかな?」と、なってしまいかねません。そうではなくて、ショーンは常に変化する状況と対話し続ける実践者の専門性を位置付けなおそうとしたのです。知恵が変化するのです。というよりも新たな状況について考え続けることで新しい知恵が生まれたり、新しい判断に至ったりする、そのプロセスの中に専門性があるとしたのです。いや、その営みそのもの、その営みを刷新していく力そのものが専門性だと言ったほうが正確かもしれません。
知恵は生かされ、時には誤り、さらに改善されてより善いものになっていく。経験によって新しい課題が発見され、未知の課題に臨み続ける、まさに、現代の企業の社員は、その力を求められていると言えます。企業の経験学習は、体系化された知識やスキルを現場に適応して通用するようなものではありません。
そうした動的な営みの中に専門的な知恵が息づくことを重視しよう!と当時、投げかけたのがショーンでした。今となっては、そんなに斬新は提案ではないでしょう。この専門家像が日本の看護界や学校の先生や保育界に及んできたのは、2005年ごろでした。2010年の保育所保育指針の改定の時にも話題になりました。厚労省のヒヤリングで森上史郎さんが「これからは保育士の専門性が大きく変わる。前に戻ることはない」と明言していました。
私は「これでやっと保育者の専門性が全く変わる。手遊びやら歌や踊りやら、運動遊びやら、そうした表面的な技術がいくらあっても仕方ない。保育のプロセスの質を高めるには、その保育のまっさい中に、いろいろなことに気づく力がないとどうしようもない」ということの理論的な支柱をえたと感じました。そして保育所保育指針の解説書を書くにあたってそれも議論しました。
しかし他のことでもよくあるのですが、本来の行為の中のリフレクションというダイナミズムが失われて、行為の後の(ついての)省察だけが取り上げらえれることが増えました。最悪なのは、形だけの「反省」だけが求められる形式主義に陥ってしまう面もあることです。監査にくる都や市の専門家と話をしても、なかかな通じません。この専門家の意味が行政官にまでは伝わらないのです。
例えば指導案や研修報告欄に「反省欄がありますか」みたいになってしまいました。PDCAが回っていれば省察したことになる、というような別の改善サイクルの話と混同されたり、そちらが優先されてしまったりもしています。こうした無理解や誤解や形骸化に、敏感に反応して「変だな?おかしいな」と感じることや、気づいて省察できることこそが、行為の中の省察であり、ショーンが訴えていたことだったのに。
例えば、保育の事例を書くことは、行為についての省察です。しかし行為の最中に考えながら実践しているのが保育ですから、その最中の子ども理解、心の通い合い、そこで感じとった内容、こうしたらもっとよくなりそうだと気づく環境のあり方、それに基づく次の判断、そして自らの行為、応答的な反応・・・それらの複合的な連続体が保育という塊です。それら一連のプロセスの一瞬一瞬に専門的な知恵が生かされています。うちの先生たちは、そうしたことを常に感じながら保育に携わっています。そうしたことが記述されている保育事例は、素晴らしいし、一方で書けないことや表現できないこともいっぱいあることは、本人が一番知っているし、ましてや保育の可視化は、そのほんの一部でしかないことも自明です。
もう1つ重要なことは、省察や判断の根拠、エビデンスの問題です。この保育の知恵や判断の根拠が、医学や心理学や人類学や社会学の知見に基づくものであっても、その知の枠組みとはまた別の「認知の専門的フレームワーク」が、保育にもあります。その切り取り方や位置づけ直しに当たるのが、教育の五領域であったり、藤森先生の見守る保育の10カ条や保育の三省、あるいは子ども像である保育目標の根拠として私が練り上げた「5つのポイント」になるのです。これらの項目は子どもの発達を保証するために不可欠な省察の視点であり、根拠でもあります。
誤解のないように付け加えると、一般に知識や技能はスキルと言われ、その陳腐化が激しいのが今の時代です。一度学んだことは、すぐに古くなってしまうから学び直す必要があるとよく言われます。しかし、省察的実践家の学びは、この意味では全くありません。それが役立つのはもちろんですが、重要なのは行為の中の省察の方だからです。まあ、確かに行為のスパンを長く取れは、当てはまらないわけでもないかもしれませんが・・。
この話を保育者が読んで、安堵するのか、焦るのか、あるいはチンプンカンプンなのか。その差は大きいかもしれません。