連休、あるいは三連休はいかがお過ごしでしたか? コロナが心配とはいえ紅葉狩りなどの小旅行に出掛けた方も多かったことでしょう。天気はこの連休を境に季節外れの小春日和も終わり、平年並みの寒さに戻っていくようです。写真はチューリップの球根です。
自然がもたらす「実り」に感謝するこの収穫祭のお祭りを経て、年末の備えに入っていくこの時期、戦前まであった神道の大嘗祭が行われたのが今日11月23日の勤労感謝の日です。戦前の国民の休日は全てGHQによってご破算になりましたが、名前を変えて残っている数少ない国民の休日です。
その歴史的な経緯はともかく、働くことがもたらす恵みの意味が不明瞭になり、GDPや生産性などのマクロな数字に置き換わってしまう現代にとっては、「勤労感謝の日」を本来の経世済民を考え直す日にするといいかもしれません。一部の民放がSDGSを取り上げていましたが、国会でも経済の本格的なグランドデザインを描くための論戦を繰り広げてもらいたいものですね。
働くこととその労働価値については、アダム・スミスがわかりやすく説明しています。ここに、りんごの木があります。ある人が木に登ってりんごをもぎ取ってきてくれました。自分で取らずに、とってきてもらった労働が価値を生んだことになります。これがりんごに加わった新たな付加価値です。それならと、自分一人でリンゴを育てて自分でたべる自給自足なら、交換価値としての付加価値は生みませんからGDPも増えません。全て人が自給自足の労働だけで生活していくことができるなら、それにこしたことはないでしょう。確かに、江戸時代は持続可能な社会に近かったという考えもあります。
しかし、現代は一国内で完結できません。クールドラゴンに乗って宇宙へ行きたい人でなくても、ただ質素な毎日の生活の営みであっても、自分以外の他人による付加価値の恩恵無くしては、きっと何もできないでしょう。衣食住の全てに渡って、その依存関係は地球上に広がってしまいました。この現実から経済を考えるしかないので、国家の仕事は、矛盾することなのですが、地理的な国境問題とグローバルな経済問題を両立させていくしかありません。ただし、どちらも「相手」がいて、優先させる価値観が双方で異なるので、その調整が難しい。
働くことが、身近な人のためならわかりやすいのですが、不特定多数の他者を相手にする「勤労への感謝」をどう考えるか。非倫理的な生産活動には感謝できません。エシカル消費にしても、SDGSにしても、顔の見えるローカルな地域社会が単位になって、それがうまくつながる仕組みができるといいですね。