わたしたちの生活のなかでも一番大切なベースの部分。それはちっち組、ぐんぐん組の子どもたちが思い出させてくれること。「一枚のエプロン」をめぐる子どもたちの関わり合いの中に、自分の気持ちと相手の気持ちを推し量ることができるようになっていく絶妙な距離感を学んでいる。そんな心が育っているようだ、という「ちっち・ぐんぐんのブログ」の描写を読むと、私たち大人がやっていることに気恥ずかしさを覚えてしまいます。明日は「成人の日」。成長するとか、大人になるとか「何がどういいことなんだろう」と考えてしまいます。
先だってここの日記に幸せの3条件の話を書きましたが、上記の乳児の中に見出す姿は、この3条件を学んでいるようにも見えます。3条件を短く要約すると「①やりたいことができて、②それが利他的であり、③心地よい関係を作る」と幸せですね、いうことです。子どもたちは「一枚のエプロン」が「幸せのエプロン」になる方法を学んでいるかのようです。まぁ、幸せだなんて滅多に口に出来るものではないんですが、映画広告のサブタイトルみたいに「原題のまま無い方がいいのに」と思うアレだとご理解ください。
「エプロンをつける」ことは、自分で自分につけることも相手につけてあげることも、どっちにしても①の「やりたいこと」なのですが、相手につけてあげる場合は、それが利他的であるか、ただの我儘でしかないかを、相手の気持ちを察しながら判断していくところが大事な育ちになります。なので②と③がセットになっているのがミソですね。そこに体験の価値が見出せます。
自分もやりたいことができた!同時に相手も喜んでくれている!ね、よかってね!この3つが揃って初めてハッピーですからね。
ところが、やりたいことはやれた、でも相手が嫌がっている、それじゃだめだよね。そうやって相手のことを感じている。これを感じあって判断している。そんな子たちの姿から先生は「ひとはもともと助け合おうとする力を持っているのだということを思い出し」ています。だから「お互いに補完しあって協力していくこと」が生活の中でも一番大切なベースの部分になっていると感じるのでしょう。
物事に何を付け加えたらもっとよくなるだろうか。足りないものがあるとしたらそれは何だろうか。相手が求めているものは何だろうか。地球が困っていることは何だろうか。・・こうした「他者のこと」から始まって自分のやりたいことを考えるのがケアの本質(メイヤロフ)であり、養護の営み(鯨岡)であり、情緒を大切にする日本文化(岡潔)に通じるはずです。
教育的な側面があるとしたら、先生が書いているように「相手がどう感じているかな?ということにも目を向けていけるように関わって」きているところになります。そんな関わりが起きやすいような人や物や空間の環境デザイン(藤森)とセットになったときに、いわゆる「見守る保育」になっていくのです。いわゆる、と言ったのは実はこれが本来の「保育」そのものなのでした。