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園長の日記

無性に小説が読みたい!

2021/01/25

今日はすいすいの子どもたちが漢字で「夢」という字を書きました(上の写真)。夢は昼に見る夢と夜に見る夢がありますが、子どもはどちらの夢も見ているのではないかと感じます。昼に見る夢というと、大人は希望としての夢を想像するでしょう。キング牧師の「アイ・ハヴ・アドリーム・・」の夢です。

でも、その夢ではなくて、私は子どもは昼間にも夢の中で生きているのだと思っています。それがどんな感じなのかを想像してみるために、大人の私は自分の無意識にまで降りていく必要があります。大人は自分が何を抱え込んでいるかも、忘れていますからね。というよりも、抱え込んでいることを忘れて生きられるのが大人ってことかもしれません。

ちょっと前の映画に「海の上のピアニスト」という名作があって、昼間に夢を見ることをやめない主人公のお話に、涙が止まりませんでした。そうやって、普段は隠れていて意識していないものが、自分の情動の成り行きに委ねておくと、無意識の底から自然と立ち上がってくる意識というものに出会うことができます。嘘だと思うなら、寝る前に色々思い浮かべることをイメージして見てください。子どもは昼間もそうやって生きているんですから。

こんな話は「園長の日記」というよりも、極めて個人的日記になってしまうのですが、それでも、かなり多くのことが仕事と関係のあるモチーフが含まれていることに自分ながら呆れてしまいます。リラックスして意識を解放しておくと、まずは気になっていることの輪郭がはっきりとしてきます。「こんなことが気になっていたのか」ということに気づくことができます。ある社会福祉法人から依頼されている講演会や本の書評、春からの講義のシラバンスづくりをどうするか。その中にケアリングについての自分の仮説があって、それを言葉にしようとしている自分が見えてきます。いただいた論文の感想に書こうと思っているケアリングのイメージが広がってきました。でもそれを言葉にしようとすると、湧き上がってきていたものが止まってしまうので、言葉にするのはやめて、またボーッと瞑想に戻ります。

頭の中であれこれと浮かんでくるイメージはシャボン玉のように消えていってしまうので、そのイメージを残しておきたくて、頭にセットしておけば後で絵巻物のような記録が自動的に残るといいのになあ、といつも思います。今読んでいる小説の成り行きが気になってしまうと、瞑想は中断になってしまいます。改めてまたこの意識状態に戻れるコンディションはいつになることか。そしてこんな風に、シャボン玉が出てきては弾けて消えていくのです。疲れていたら、大抵は寝てしまいますが。実際に昨日24日(日)は寝てしまって、「園長の日記」は日付を跨いでしまいました。次は昨日と今日の瞑想の中に現れてくる私の夢の一部です。

・・千住博が描いた高野山金剛峯寺大主殿の襖絵の完成プロセスにも彼と作品(空海)との間にあるケアリング関係があるんじゃないか。・・・あのアートの営みにこそ、人間の営みの根幹がある・・・そう、その彼方への想像の翼こそ夢にふさわしい・・・それは澁澤龍彦が病床で書いた最後の小説「高丘親王航海記」の天竺とも重なっていく。・・・世阿弥が「融」を創作した時に見出した伊勢物語の第81段。在原業平が翁の面を被って「塩釜にいつか来にけむ 朝凪に釣りする舟はここに寄らなん」と詠んだ心情は、髙樹のぶ子の解釈と同じなんだろうか? ・・・じゃあ山折が書いていた神と翁の関係はどうなのか? ・・・それにしても伊勢物語は誰が書いたんだろう。高丘親王の父親は、業平の祖父にあたる平城帝・・紫式部の光源氏は源融をモデルだけど、ケアリングだらけの日本文学なのに誰も言及しないのはどうしてだろう?・・・

このように書くと、あたかも何か連想している流れがあるかのように見えますが、順番は全くごちゃ混ぜに現れては消え、また現れて、という泡ぶくのようなイメージのシャボン玉です。この通りではなくて、あっちいったり、こっちいったりの出鱈目です。ケアリングのテーマが多いのは、大学の先生からケアリングの論文をいただいてその感想を考えていたからです。それでも不思議なのは、何かを思い出すこと事態がすでにイメージの再現ですから、子どもの模倣と全く同じことを無意識はいつも行っていて、それが脳の中で起きていると思うと摩訶不思議な気がしてきます。

こんな欲求が現れてくるのは、きっと世の中の言葉が病んでいて、取り繕う言葉ばかりが張り付いているからでしょう。正しいことかどうかばかりを競い合う言葉が、抑圧されてしまう弱い意識への優しさに欠けるので、文学を引き寄せたくなるんだと思います。ああ、無性に小説が読みたい!(子どもなら「ああ、早く遊びたい!」です)

 

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