昨日の日記の続きですが、私が「小説が無性に読みたい!」と思っている<自分の本音>との出会い方は、子どもたちが<夢を持つこと>と同じところがあります。本当は何をしたいんだろう?という問いは、自分にも他者にも向けることが大切だからです。自分に向ければ、私が唱えている幸せの第一条件と重なるものになり、子どもに向ければ、保育のプロセスの起点(スタート地点)に立つことになるからです。
◆「本当は何をしたいんだろう?」
この問いを自分にちゃんと向けるために私は瞑想することが好きです。自分に向かってくる様々な刺激、情報に振り回されないように、自分に自分で作用させることができるようになっていくからです。昼間の起きている時に受け取った刺激に、自分がどのように反応したか。その自分の中で起きている心の中の経緯を観照するのです。そうすると自分の人格特性が見えてきます。大抵、人間は周りのことに振り回されて生きています。それは自分が選んでいると思っていながら、実は周りの情報(たとえばコマーシャルや流行やブランド)に騙されていたり、唆されていたりします。それを自覚していればまだいいのですが、その自覚がないままに生きていくのは「不自由」な状態だと言えるでしょう。
自分がどんな欲求を抱えていて、それによって自分がどのように振り回されているがわかってくると、大抵は恥ずかしい自分が見えてくるので、それを克服したいと思うようになります。そこに自発的な自由意志が芽生えるといっていいでしょう。その時から人は本当の意味で自由に生き始めると言っていいでしょう。
これは精神を自由に保つためにとても大切な認知スキルだと思っています。誰が言ったのか忘れましたが、高校生の時に座右の銘にしていたフレーズが「感情は認識の窓である」というものです。「もっと落ち着かんば、そげんイライラしとったらいかんばい」とか「あわてんでよかけん。ゆっくりせんね」などという言葉が好きでした(長崎弁です、すみません)。情緒の安定というのは、欲求が満たされると生じる心の状態ですが、欲求には自由意志というものも含まれるのです。生理的な欲求を満たしても、愛や承認や達成感や絆など社会的な欲求が満たされないと心は落ち着きません。その社会的な欲求、つまり人間関係の欲求の中でも自由の欲求は気付きにくく、曖昧な対人関係の間に生きる日本人には、〈精神の自由〉をイメージするのは難しいようです。
のちに、高橋巌さんが行っていた勉強会でルドフル・シュタイナーの思想と出会い「いかにして超感覚的認識を獲得するか」が20代前半からの私のバイブルになりました。思考と感情と意志を自分に正当に自分に作用させることの重要性を学びました。心に静かで深い湖をたたえた人間になりたいと思うようになっていったのです。
◆「自分は、本当は何をしたいんだろう?」
そして、その問いに対する回答が納得できるものであれば、よく理解できるものであれば、心に大きな共感を呼び起こします。自分の心にあるものに気づき、そうか!そうだったんだ!と分かれば嬉しいものです。これを保育用語で説明するなら、認知的な営みが、同時に喜びや意欲を掻き立てる非認知的な情動をもたらすからです。認知も非認知も本当は常にセットなんですよね。それなのに我慢強さや最後までやりぬく意欲などの非認知的なものだけを切り離して大切にしましょうという保育論が、まことしやかに流布されるのは困ったものです。もし我慢強さや粘り強さが育つとしたら、何かをやりたいという強い意欲に先立つ認識(知ることやわかること)があったはずなのです。それは、その対象への心配りやケアリングも起きていて、その結果として、それが面白い!や楽しい!の心情となっていったはずなのです。将棋を楽しんでいる子どもたちを見ていると、その世界のルールや方法をよく理解できればできるほど、楽しいと思えるようになっていっています。
そこでやっと子ども理解の方の話になります。
◆「子どもは、本当は何をしたいんだろう?」
常にこの視線を持って子どもと関わっていたいものです。こう見えるけど、本当は? 一見ああしているみたいだけど、本当は? この眼差しを忘れないようによーく見てあげよう、それが保育の第一歩。そのために、文化的な実践の窓を美しく用意してあげたい。あ、面白そう!と興味を持って接近していけるように。色々なゾーンを用意して、環境を用意して、色々な人が関わって、そして目に見えない歌や遊び方や生活の方法やアート的なセンスと出逢わせてあげたい。園の中だけではなく、地域にも世界にも視野を広げながら。
その世界との相互作用によって引き出される子ども一人ひとりの個性の中に、「ああ、こんなことをやりたかったのかもしれないね」が見えてくるものです。本人だって、何をやりたいのかなんて、まだわからないからです。何やりたい?「楽しいこと!」これが子どもなのでしょう。そのうち「夢」が豊かなものに成長していくことでしょう。