保育園の1階はちっち・ぐんぐんの生活エリアですが、そこで展開されている「模倣」を見てみると、子どもにとって子どもの存在がとても大きいことがわかります。お友達が楽しそうに遊んでいると、それをじっと見てた子どもがそれを真似しようとします。
遊具で遊んだり、絵本を手にしたり、カーテンの裏に入ったり、お友達が持っているものを自分も触ってみたいと思ったり。実に様々なことを子どもたちは見たり、真似したりしながら、「そのこと」を分かち合っています。「そここと」は思ったよりも広いもので、つい大人は「ままごと」とか「お買い物」とか「食事の場面」などと、わかりやすい場面で切り取ってしまい、「〜ごっこ」と名前をつけてしまいがちです。でも模倣は実に色々なところで生じています。
お友達が興味を持って手にした物を、自分も触ってみたいと手にしようとすることも、模倣ととても近い働きのように見えます。しかも、ここで大事なことは、お友達のやっていることをじっと見ている中で、いつのまにか「自分もやってみたいなあ」という自発的に「真似してみたい」という動機が生じていることです。心を寄せているお友達がやっていることだからこそ、自分も・・・という共感的な関わりが生まれているのでしょう。真似をしたいという相手やことがあることが、ここでの真似することの前提条件になっているではないでしょうか。心の通い合い、気持ちの重なり合いを求めている時もあります。
確かに、物に興味があって、知らない相手であっても「あ、あれ欲しい」と思って取ろうすることもあります。確かに、それは模倣とはいいません。でも、同じことをしたい(つまり真似したい)という動機は同じです。
模倣は、他者がある行動をしたとき、それを観察して同じような行動ができるようになることです。心理学などの辞書には「観察」と書いていることもあるのですが、実際の子どもたちをみていると、お世話をしもらうことも立派な観察の機会になっているので、やってもらったことをやってあげるようになるのも「模倣」があるからでしょう。お手伝いをしてもらった経験のある子どもは、よくお手伝いをするようになるのは、そこの「模倣」が橋渡し役をしていると考えられます。
このように、模倣は真似ることなので、色々なことを真似してできるようになることを「真似び」と呼んでいたわけで、それが「学び」の本質になっています。ですから、学びはとても広い世界です。共感作用と模倣作用が学びを生じさせているので、そうした状況や文脈があるところには、子どもの学びが生まれています。子どものそれまでに経験したことの積み重ねの延長に、身近な人がやっていることを「面白そうだなあ」、「楽しそうだなあ」とインスパイアされて、私も、僕も・・「やってたみい」となるのです。
ところで似た言葉に「学習」がありますが、それとは全く異なります。学校教育関係者は「遊びの中の学び」を「学習と同じである」ということがありますが(無藤隆)、実は全く異なります。学習には目的があってその手段を明確にする傾向が出てしまいますし、学習の内容は教える内容と同じだとみなしがちです。
しかし子どもの学びは、前述したように、その対象も内容も対人関係の中から生じるものが多いということも、学習とは異なります。特に学校教育の学習は、その内容は系統的な知識の羅列になっているので、子どもの個々の学びの文脈を考慮しにくく、本来の「学び」から遠ざかってしまがちです。子ども(人間)が先天的に持って生まれた学びには、いまだに人間的な謎に包まれたものがあって、質的にも哲学的な意味でも異なると言っていいものなのです。