何かの集団の一員であるという所属の欲求を私たちはもっています。同じものに連なっているという生の連続性やルーツを求める傾向をもっています。私は何者なのか?というアイデンティティは、自分が自分であるための証明として、何かの価値や連続するものに同化しようとします。子どもの模倣衝動もこのラインにあるような気がします。
しかし、一方で、私は私であるというときは、私は違う!と言っているのです。私はあなたじゃない。私は私が決める、決定権は私にある。それをどう考えて、どう行動するかは私が選択して決めたい。私にはそういう意思決定の自由がある。このように考えるのも、また私たちの中にあります。
自分らしく自由でいたい。しかし同じ共同体の一員でもありたい。この私は私でありながら、私は私たちでもあるということは、至るところにあります。結婚して、それまでの自分の姓でいたいのか、どちらかの同じ姓にするのかを決めるのは、個人の自由な選択になります。私が私でありながら、私たちでもあるあり方を姓名(氏名)で規定するとことに、いかにアイデンティティーが、その社会制度に縛られているかがわかります。その国の個人と国家の関係です。
同じ発想で、ジェンダーのことを考えてみましょう。自分の脳が生物学的に男性だったり女性だったりLGBTだったりすることは、生物学的な要因もあって、自分の意思、選択意識だけでは解決しません。本人さえ戸惑ってしまうこともあります。人と人との関係の中で、初めて自分のありように気づくこともあります。僕は男だと思っていたけど、違っていたことに後でわかるのです。これらの問題を考えるときに、立ち返るべき視点は「本人にとって」はどうなのか、ということが最優先されるといいのです。
そこで子どもと接するときに気をつけたいのは、ジェンダーの特性を一般化しないということです。普通は〜だとか、〜は◯◯が多い、とか量的に多いことをもって論拠としないということです。一人一人違うんだという、徹底した「自分らしく」の尊重から始めたい。したがって、当法人の保育は年齢別、性別、しょうがいで分けないことにしたのです。