MENU CLOSE
TEL

園長の日記

初心忘るべからず

2021/03/28

さて、1年間が終わろうとしています。12月よりも3月の終わりの方が「ああ、終わるんだなあ」という感じが強いのは年度が変わるからですが、こんな時は、また「初心忘るべからず」を大事にしたくなります。また一番大切なところまで遡ってから「よし、そうだった。ここがスタート地点だった」と確認します。以下は、園だより4月号の巻頭言に書くつもりの内容です。

スタート地点は人それぞれでしょう。でもきっとその人なりに「大事にしていること」がそこに現れるんじゃないでしょうか。元旦に思うことが「自分の人生にとって」なのに対して、年度始めに思うことは、私の場合は「福祉人として」の大事にしていることになります。それはこんなことなのですが、普通に思われていることと、ちょっと違うかもしれません。

私は「保育」が仕事なのですが、これは「支える」とか「サポートする」という言葉遣いをよくします。育ちを支える、子育てを支える、などということが多いのです。実際のところ、保育士倫理綱領の前文は2文からなるのですが、その最後は「〜一人ひとりの子どもを心から尊重し、次のことを行います」と書いてあり、「次のこと」とは次の3つです。

  • 私たちは、子どもの育ちを支えます。
  • 私たちは、保護者の子育てを支えます。
  • 私たちは、子どもと子育てにやさしい社会をつくります。

実は「支える」という言葉が選ばれていることには、深い意味あります。「教える」でも「導く」でもありません。つまり、まず大切なポイントは、主体が子どもであり保護者である、ということです。育つのは子どもです。子どもが育とうとすることを側で支えるしかないのです。親が我が子を育てることにしても、そこは同じです。親も子どもが育とうとすることを支えるのが子育てですが、さらにその親の子育てを、私たちは保育を通じて側から支えることになります。

もう一つのポイントは、「支える」方法は、多様であって、支えられる側によって方法は変えなければならないことです。子どもが自ら育とうとすることを、その「自ら」が本当に「自ら〜しようとする」となるように、支えるのです。そのためには、A君にとっては有効だった方法が、Bさんにとって有効とは限らないこともあるということです。多くの人が誤解しています。あまりよく理解されていません。その子にとって本当に「自ら〜しようとする」ように支えていますか、ということです。

たとえば、最近スポーツ選手や芸能人の活動、アーティストなどマスコミに登場する人の間で流行っている言葉に「自分が頑張っている姿を見てもらうことで、勇気を与えることになればと嬉しいです」という趣旨のコメントがとても多い気がします。コロナ禍の影響もあるのですが、「福祉人として」思うのは「それを見て、ああダメだ」と絶望する人もいるのに、ということです。人はそんなに頑張れないし、うまくやれないし、人が成功する姿が辛いものになる人も大勢います。返って「できないし、困っている、失敗した」という話で救われることも多いのです。

何をもって、その人が自ら一歩踏み出せるようになるか。

真っ白で眩しいほどの輝かしい姿に憧れることはあっても、それで「自分も」と心が動き出すかどうかは別です。遠すぎるもの、高すぎるものは「我が事」になりにくい人もいす。ましてや「自分は無理」という自信喪失になってしまわないといいのですが。

子どもはどうでしょう? 子どもはいつも、親の本当の「地の心」に触れたいと思っています。励ましたり、諭したり、指示したりする姿だけを子どもに見せていませんか。それだけだと、子どもの「まっすぐな心」はげんなりしているかもしれません。子どもは励まされたいと思っているのではありません。気落ちしたり、困ったり、不安だったりする気持ちを「わかってほしい」と共感してもらいたいことが多いのです。

「ボクのこと、わかってもらえている」「わたしのこと、知ってくれている」という気持ちから、子どもは一歩を自ら踏み出すエネルギーを得るのです。そこで私は「がんばって」とあまりいいません。いうときは「がんばってるね」です。子どもはいつだって、大人が思う以上に、いつだって、がんばって生きているからです。

これが私の「初心忘るべからず」です。年度の初めに思い起こす大切なものの一つです。

top