園だより5月号 (巻頭言より) ホームページ「園だより」に本日アップしました
保育の要諦はなにか?と一言で核心を、と訊ねられたら「心が自ら一歩を踏み出すように支えることです」と答えます。さらに、短く漢字一文字で、と言われたら「自」になるでしょう。自然という言葉の原義ですよね、自ずから然(しか)るべくある、という仏教用語で「じねん」と呼びます。これをネイチャーに当てはめたところが、日本人の感覚の鋭さでもあるなあと、感心するところです。どうして、そう考えるのかというと、そもそもの生命の始まりは本人のことであって、本人が自ずと生き始めたものだからです。自然界の生き物は全てそうです。人間もそもそも、存在していること事態がすごいことだし、どの子も可愛くて、その子らしくて愛おしい。そのありようを、そのまま大事にしてあげたい。自分らしくあって欲しいから、そうであるように私たちは支えるようにしています。
例えると、そうですね、何がいいでしょう。昔からよく言われるのは啐啄同時です。雛が卵から孵るときに、親鳥がタイミングよく突いて殻を割ってあげることですが、出てこようとする雛自身の力が先にないと生まれないし、親鳥もタイミングよく程よい力で突かないと傷つけてしまいます。あるいは発芽の条件もそうですね。種は何もしなければずっと種のままですが、でも生長する生命力を秘めている。気温、水、空気(日光)を揃えれば発芽します。種の持つ生命力がまずあって、条件はそれを支えているだけです。
保育の例なら事欠きません。教育の五領域の「健康」のねらいは「自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」ことですから、ここにも「自ら」があります。危なくないようにと、なんでもモノを無くしたりして経験をさせないと、危険を回避する力が育ちません。また五領域の「人間関係」には、「支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」となっているように、ここでも「自立心」が育ちのキーワードです。依存ではなく自立。他律ではなく自律です。しかもそれの力で支え合って生活しようと主体的な関係性(やさしさや思いやり)を謳うのです。
これは渋沢栄一がモットーとした「修己安人」に通じます。論語に「自分を磨いて人々の生活を安定させる」と語った孔子のことばに由来するそうですが、社会のなかで自分の志をどう立てるか、生きていく上でこれが一番難しい実践力ですね。そう考えると、その原点はやはり克己であり、先哲はそこに至る筋道の探究者ばかりでした。「自ずから」をどうやって養うか。教育界なら自己学習とか、自ら学び〜云々という「生きる力」の涵養の話になります。
では、子育てをどうするか。結論はいつもお話ししていることと同じです。環境をきちんと用意して子どもの探索欲求や好奇心を大切にしながら、選択できることを子どもに見えるようにしてあげること、その遊びや生活の中でその活動に没頭できるようにすること。それは子ども同士の関係の中にできるだけ任せて大人はあまり介入しないで見守ること。困ったらいつでも助ける用意があることを伝え、大人はどっしり構えて安全基地になってあげることです。