ここ数日、わいらんすいの幼児では、水槽の高さを変えたり、ハサミの使い方を覚えたり、水や砂と出合ったり、色々なコトに熱中している様子が報告されています。こうした活動や遊びの姿の意味について、いくつかの視点から大切なことがいえます。
子どもたちは見たり、触ったりしながら、生き物や紙や水や砂の「性質や仕組み」に関心を寄せています。生物ゾーンにはメダカ、どじょう、ザリガニ、ダンゴムシ、カブトムシの幼虫などがいるのですが、らんらんのKAさんは「ダンゴムシが今はまだ寝ているの」と私に説明してくれるし、すいすいのTHくんは「ザリガニはお腹がへっているよ」とえさをあげる必要があると主張します。子どもたちは、生き物の立場になって、いろんなことを想像しながら、生き物の「命」を感じとっていることがわかります。
一方、ハサミで紙を切っているとき、「こうやったらうまく線の通りに切れた」という、使い方のコツを自分のものにしていっているのですが、そのときハサミと紙が、力の入れ方とか刃の擦れ具合とかを子どもに「語りかけている」と捉えることもできそうです。私たちはそんなとき、よく「モノと会話している」と表現することがありますよね。物の方がこちらに語りかけてくる、物の声が聞こえてくる、そんな物との関わり方を、子どもはよくやります。
水も勢いよく出すと、しぶきが飛んだり、強さを感じたりしているでしょうし、静かに流す時の音が小さいことに気付いたり、手で感じるものが異なることを試しているに違いありません。先生が教えてくれたのですが、そのとき砂場で子どもが心を奪われていたのは、砂が起こす「砂煙」でした。何かの拍子に立ち上ったのでしょう、子どもが驚きを持って感じ入っているのです。そんな世界は、大人の感性ではスルーしてしまうでしょう。
このように、子どもにとっての生き物、紙、水、砂は、ただ物としてあるのではなく、子どもの方へ「性質や仕組み」を明かしているという意味で、子どもの方へフィードバックしていることになります。一般にこのことは教育の領域「環境」のことだと思われています。
ところが、子どもが一方的に生き物や紙や水や砂に働きかけているのではなく、反対に物の方からも子どもに働きかけているわけで、双方向性のある「やりとり」になっていると解釈した方がいいんじゃないか、というのが日本保育学会の自主シンポジウムで語られていたのです。このようなとき、子どもはモノへの心配りがあり、物をケアしている事になるというのが佐伯胖さんの「ケアリング理論」(ノディングス)です。そうなると教育「環境」ではなく、養護(ケア)としての環境です(指針や要領はそんなことは認めていませんが)。
そうだとしたら、また子どもの「表現」の意味も変わります(転倒します)。ものが語りかけてくることを受け止め直していることが子どもの表現であることになります。この位置付け直しは、青木さんのダンスと同じなのですが、わかっていただけるでしょうか。マネキンとデザイナーのあれ、です。あの場合は、モノが自分の体なのです。自分の体と会話しているということです。それは自分の体を気にかけて(ケアしている)感じることが結果的に表現になっていくのです。外にある型を真似して同じ踊りができるようになる、という方向ではないのです。
したがって「美しい」と感じる感性は、大人が子どもに育てようとするものではなく、世界(モノの方)が子どもに語りかけてくるのです、じっと世界に分け入っていくことができれば。和歌や短歌を創るときと同じです。稲の苗やフラワープロジェクトで、ぜひ試してみてください。世界に没入すると、世界が秘密を打ち明けてくるようになるのです。