子どもが本気で遊んでいるとき、ある種の共通した特徴を感じます。その方向へ深まっていくものです。それは「何かになりきってみる」という傾向です。その「なりきり」が徹底されていく中に、子どもは面白さを強く感じるようです。しかも、相手とのやり取りが必要で、働きかけると、その反応が戻ってくるという、相互性が豊かな方が盛り上がります。
しかも、子どもの編み出す表象の豊かさはものすごい物があります。子どもと本当に真剣に遊んだことがある方なら、かかわり方次第で、楽しさや豊かさがどんどん湧き出てくることをご存知だと思います。子どもの心が解放された時の精神の躍動感は、圧倒的ですよね。
「園長ライオン」「フラミンゴごっこ」「鳥のブランコ」などの幼児との遊びは、動物になってみる、という「ごっこ遊び」なのですが、こんなにも楽しそうに、嬉しそうにしている姿を目の当たりにすると、この欲求の強さは一体なんだんだろうと考えてしまいます。乳児も同じです。盛んにごっこ遊びを楽しんでいます。
保育学の構造に分け入っていくと、その根底には哲学があります。昔、村井実さんの自宅で「善さ」について話を伺ったとき、ソクラテスやプラトンにはじまって西田哲学まで、何がよいことなのかを徹底的に分析してたどり着いたものですという話を聞きました。私はシュタイナー思想に染まっている、神秘主義一辺倒の若かりし時代だったので、観念主義哲学をいくらこねくり回しても存在学にはならないのに、と不遜にも「ふーん」と聞いていました。
しかし、実際に保育という仕事をする立場になると、村井さんが提唱した「善さの構造」の意味深さがよくわかるようになってきました。その村井哲学の継承者である佐伯胖さんが紹介する認知科学に基づく保育観がまた、子どもの見方を刷新してくれます。そうやって見えてくる子どもの姿や保育の形は、新しい保育のビジョンを生み出してくれます。そこに保育学の深いところにある価値創造としての保育の営みに「触れる」面白さを感じています。