先生たちが「子どもの関わり方」を大事に見守っている様子に、私はとても安心します。子どもが対象をケアしていることを、大人がケアしているという関係が「見守る」ことの本質だからです。ここでいうケアとは、子どもが熱中して対象と「やりとり」が生じるような環境を用意してあげることも含まれます。その様子の報告がブログで続いています。
例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子が、ぐんぐん(1歳児クラス)のおともだちの靴をはかせてあげている姿と、それを温かく見守っている先生の眼差し。そのかかわりに注目してブログに取り上げたいほど、先生がその育ちや「やりとり」に「善さ」を見出し、またその「やりとり」の中に自然な「思い遣り」の姿を描いています。
ここでいう「自然さ」というのは、協力することの自然さです。報酬系とは無縁な脳の働きが生じています。これは強い。褒められたり、励まされてやっていることではありません。承認欲求からの行動ではないのです。「大人の出る幕はありません」という言葉が、見守れていることを意味します。
そうなんです。私は研修会で見守る保育の説明を求められた時、大人が見守るのが大事なのではなく、見守れるように子どもが育つことが大事なんです、という話から入ります。そうなるためには3つの条件が必要ですよ、と。一つが子どもの主体性を尊重すること。二つ目が意欲的にかかわることができる選択できる環境を用意すること。そして三つ目が、子ども同士のやりとりが生じるような場を用意すること。この3つです。
これが「環境を通した保育」という意味なんですが、多くの保育園との違いは、大人が、いちいち褒めたり、子どもがことさら「みてみて」と承認欲求を求めてきません。子どもに自信が育ち、大人にかまってもらう必要性が減っているのです。子どもは困った時は先生が助けてくれるという「信頼」を持っています。先生の方も、子ども同士の世界に過度に介入しません。
わいらんすいの子どもたちが「生き物」に、こんなにも心奪われている様子が、数枚の写真に表れています。カブトムシの幼虫が土(腐葉土)に、モソモソと潜りこんでいく様子を、じっと見つめている表情。ここにはカブトムシへの愛すら感じますよね。
さらに私が感動し、微笑ましく思ったのは、ずらりと並んで虫に見入っている「佐久間橋児童遊園の背中」の写真です。これはすごく面白い。写真コンクールに応募したくなるような一枚です。副タイトルは「都会の自然、子どもたちが見つめているもの」です。こんなところに、子どもたちが熱中するものがある、という子どもの目線を大切にしてあげたい。この背中の先に何があるんだろうと、関心を持ってあげる大人でありたい。そこが大人が持ちたい子どもへの眼差しであり、心配りとしてのケアリング(思い遣り)になります。