園だより7月号「巻頭言」より
見えないものだけど、存在するものが色々あります。心の動きもそうですが、子どもが何を体験しているのかということもそうですね。そして保育は環境を通して行うのですが、そのポイントとして、体験のなかに渾然と隠れたまま取り扱われることが大切なものが多いです。渾然と隠れたままのものとは、いろいろですが、それが子どもに気づかれることなく、しかし、大切なものが子どもの心と体に染み込んでいくような体験です。
たとえば、わらべうた。「いっぽんばし こちょこちょ」を、ぐんぐんの先生が楽しんでいました。
♪いっぽんばし こちょこちょ すべって たたいて つねって かいだん のぼって コチョコチョ
皆さんもやったことありますよね。赤ちゃんたちにやると大好きです。私がみていた時は、ぐんぐんの子たちが、「やって〜」と先生にせがんでいました。自分から横になって、手じゃなくて足も差し出していたから、可愛くて吹き出してしまいましたが。わいらんすいでも、きゅうりの収穫が始まった頃、♪きゅうりができた、〜しおふってパパパ〜さあ、食べよ〜 を楽しんでいました。大きなきゅうりの手触りや重み、味を体験しながらの遊びですから、それもまた豊かなイメージが頭の中で動いていて、とても楽しそうでした。一見、どれも他愛のない、ちょっとした遊びなんです。
こんなわらべうたですが、この遊びによって子どもたちに「渾然と隠れたまま伝わっていくもの」があります。それは、ミソラシだけでできた狭い音域、4拍子で歌いやすいリズム、日本語のイントネーション、高めのピッチといった音楽的要素を体感しています。わらべうたは、大人やお友達との「触れ合い遊び」でもあるのですが、心も体も同じイメージや感触を共有していく体験にもなっていて、意味や概念でつながるのではなく、感覚や気持ちでつながりあうことで、共感を支えています。わらべうたの触れ合い遊びは、共感する心の、その基礎みたいなところを、せっせと豊かに耕しているのです。心がふっくらと、柔らかく、優しい、包容力とユーモアが育つ心の土壌を作っているかのようです。
べつに先生も子どもも、「はい、わらべうたをやりましょう」なんて思っていません。ただ、平安時代や江戸時代に生まれた童(わらべ)の謡(うた)遊びは、その前の時代の日本書紀にも「童謡(わざうた)」と表記されていて、長い歴史があります。受け継がれてきたものには、時代を超えた普遍的な力が備わっているのでしょう。◯◯活動とか、◯◯遊びという名前のあるものではなく、生活に溶け込んだような見えない体験の中に、実に豊かな保育力が見出されるのです。