8月2日(月)の朝。3階へ顔を出すと、年長のKMさんやIYさんたちが寄ってきて「ねえ、もう一回、お泊まり会やりたい!」と要望されます。それだけ楽しかったようなのです。たった1日のお泊まり会でしかないのに、子どもたちの成長を色々と感じます。担任から見えるその姿はクラスブログの連載を読んでいただきたいのですが、私にも保護者の方からいくつかの「成長の姿のエピソード」が届いています。
(上の写真は、園内のいろいろなところに隠されている手紙を見つけてそれを読み、わかったらそこだ、と次の手紙の場所を探しに行く子どもたち。7月30日のお泊まり会で)
・・・・
それらの話からは、子どもたちの「安全感の輪」(サークル・オブ・セキュリティ)が大きくなった、ということを思い浮かべます。私たちヒトは生まれてすぐから。自分だけでは生きていけず、体温や心拍、覚醒や睡眠などの生理的欲求の調整さえ親に頼っています。併せて、子どもたちは、大人の身体に「アタッチメント=くっつくこと」によって、心理的にも社会的にも安心を得て生存します。安全と安心を与えてくれる大人との身体の接触を通じて、子どもは生理状態を一定の水準に回復させながら生きています。
ちょっと、脇道にそれますが、この話を思い出すのは、東大の遠藤利彦先生がこの話を最近もよくされるからです。
初めて聞いたのはもう10年ぐらい前のことです。日本赤ちゃん学会の故小西行郎先生の紹介で私たちの研修会(ギビングツリーのセミナー)に遠藤先生をお招きしたことがあります。
その時、私が司会だったのですが、その会の最後に「安全感の輪の右側に、空間や物の保育環境の輪も必要ですよね」と質問したことを覚えています。遠藤先生も「その両方が保育実践には不可欠ですね」とおっしゃっていました。「見守る保育」の条件の一つがここにあると思ったものです。
園の先生は基本的に環境を構成し、この図でいえば安全基地のところに、どっしりと構えていればいいのです。困った時、不安や恐れを感じた時に避難できる安全基地があるという、その見通しが安心感をもたらします。
人間は、「抱っこ!」と甘えたり、じゃれ遊びを求めたり、子どもは安心できる他者との身体的接触を拠り所にしながら、生理的にも精神的にも社会的にも、成長していきます。
その拠り所となる安全基地に戻ってくるサイクルを、「安全感の輪」と言って、その輪は小さい子どもほど、小さく、成長するとその輪が大きくなるというわけです。
大人も同じで「安全感の輪」を持っています。不安な時、安心したいので、人と接触を求め、ハグしたり、体を撫であったりします。
身体的な接触が叶わない時は、SNSや電話をかけてきて話を聞いてもらったりします。中には「他人を心配している」と言いながら、実は自分が不安だったりしています。大人は人や物から離れて、もっと抽象的な思想や宗教やアイコンだったりします。安全基地が浄土だったり、仏様だったり、天国だったりするのでしょう。人それぞれの<安全基地>の確認や往還をしながら生きているのです。
安全基地を持たずに、自信のない青年や大人になってしまうと、自分を安心させる方法として〈他罰性〉を大きくさせてしまう大人もいます。人を批判したり、ネットに誹謗中傷を書き込んだりする心理です。
3日、ダンサーの青木さんもいろいろな場で、同じテーマを感じているそうで、活動への参加を躊躇する子どもとは、まず「ぎゅ〜っと、抱っこするとか身体的な接触を増やした」そうです。「この分野は僕らの得意なところなんですけど」と。なるほど、と思いました。
青木さんのダンスの要素に「養護=ケアリング」を感じてきたのは、実は身体の本質だったからかもしれません。当園の運動会が「親子の身体的なふれあい遊び」を大切にしていることと、理論的に重なってきました。
お泊まり会を通過する意味は、この輪が大きくなったことを意味します。困ったり不安になったら、いつでも親の身体的な接触による安心基地へ戻れる。その安心感の輪が、少し大きくなったのでしょう。それが「なんだかしっかりしてきたなあ」という感じを与えているのかもしれません。