日本の保育は世界と異なるところが色々あるのですが、その話で出てくるキーワードの一つが「東アジア」です。日本保育学会の会長の秋田喜代美さんは、日本の保育カリキュラムは、能力ではなく経験で編成していることが「東アジア」の特徴だといいます。
「日本のカリキュラムを編成する五領域自体が、欧米のカリキュラムのようにどのような能力を育成するのかで編成し、その育ちを測定するという発想ではありません。領域「環境」等に象徴的ですが、どのような経験を卒園までに保証するのかという経験内容でカリキュラムが構成され、その内容に対しし子どもの心情や姿の現れを捉えようとする東アジアの固有の教育課程思想に裏打ちされたものです」(ミネルヴァ書房『発達』162号「日本の新たな保育の物語への展望)。
これを読んで、そういえば・・と思いつくことが色々あって、たとえば日本人が大好きな和歌や短歌、俳句の「よさ」をめぐる心情です。そこには、歌い手の資質や能力を測定しようというアプローチはそぐわないでしょう。あるいはお釈迦様の資質や能力がこうだ、ああだなんてあり得ません。「晴天を衝け」の栄一の母ゑい(和久井映見)が、いたずら盛りの幼少の頃の栄一に、次のようにいう場面がありました。
「人は生まれてきたその時から一人じゃないんだよ。いろんなものとつながってんだよ。(胸に手を当てて)ここに聞きな。それが本当に正しいか、正しくないか。あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」
「論語と算盤」の渋沢栄一。ちょうど中国で孔子が活躍した頃、インド(ネパール)ではお釈迦様が旅を続けていたらしいのですが、それはざっと2600年も前のこと。その頃からずっとこの東アジアには、人間関係の中にみられる幸せ観として、大乗仏教をうみ、人の生き方の中に美学を磨き上げて、一途さや、切なさや、面影や、移ろいなどの境地を、自然の畏敬とシンクロするようにして賞味し、培ってきた歴史があるのではないでしょうか。保育の中にも、その一瞬を大切にしようとする心の動きがあるように思えて仕方がありません。
今日のぐんぐんさんのブログには、Sくんの心情を捉えた描写があります。能力や学力を「生きる力」と言いかえたところで、こんな心の風情を、気の利いたコンピテンシーとやらで一緒にされてたまるか!という気にさえなるのでした。