園だより10月号 巻頭言 より
風景には<幅>がある気がします。その幅の一つの端は目の前に展開されて移ろう<景色>。朝と昼と夜とでも景色は変わります。季節でも景色は変わります。また、みる者によって異なって見えるのが景色です。
もう一方の端が<風土>です。かなり長い歴史的な時間を経ても変わらないものです。柳原通りの景色は刻々と変わっていきますが、それでも、ここに醸される江戸情緒のように、目を凝らすと見えてくる風土があります。園の隣に建ったビルは10月にオープンします。通りの景色はずいぶん変わりますが、柳森神社や海老原商店に佇むと、この通りが江戸時代から戦後までの歴史の変遷を思い起こすことになります。迷ったら「風土を訪ねよ!」という気がするのは私だけでしょうか?
同じことをここでも感じました。大河ドラマ『晴天を衝け』で渋沢栄一の父親市郎右衛門を演じている小林薫が、そのガイドブックで「栄一の父親は藍農家として、土の状態や天候について熱心に勉強していた科学者のような一面がある。憑きものだと騒いだり、雨乞いをしたりする時代に『迷信は信じない』というセリフもあるんです。その姿を栄一はずっとそばで見ていた。とても先進的な考え方だったでしょうし、それは後の栄一の感覚にも結びついていくんでしょうね」と語っています。さらに別の番組では「藍づくりを研究し、向上心を持ち続けて、それに打ち込んでいる藍農家だけれども、どこか、足元のことを深く掘って、掘って、やり続けていくことで、世界をしっかり捉えていたというか、時代の変化もよく見えていたんじゃないか」というようなことも述べています。
演じた俳優が感じ取った役柄ではあっても、きっと本物の父親もそうした資質や思想を持っていたんだろうと思えます。ここで私は2つのことを考えます。一つは<親が子どもへ与える影響>についてです。現代はその時代のような大家族でも職住一体でもなく、核家族で職住分離が当たり前。親の仕事ぶりをそばで感じることも難しい時代です。そこでどうしても考えてしまうのは、保育園の先生の役割です。「藍づくり」への探求に相当するもの、熱心に勉強していた科学者のような試行錯誤の姿を、大人は子どもに見せているだろうか?という自省です。
気になる2つ目は、何でもあるテーマを深く掘り下げると、普遍的なものに通じるという話です。分野は違っていてもその道の専門家は、同じような見解に至ることが、ままあります。とくに自然を相手にしていると、人間がやっていることの「不自然さ」や「自然の摂理」に気づくことがあるものです。このことは保育にもいえます。子どもも大人も人間は「自然の一部」でありながら、人間が作り出すプロダクトは「人工」になります。その嘘っぽさや不自然さに気づくことは、結構難しいのですが、ドラマの中の渋沢市郎右衛門には、何が真っ当なことかを嗅ぎ取る知恵が備わっていたように描かれています。
目まぐるしく変わる景色の中で、変わらない自然と風土を大切にしたい。そんな思いを感じながら2021年度の後半の「千代田せいが物語」を皆さんと一緒に紡いでいきましょう。