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園長の日記

世界人権デーに考える自由

2021/12/10

(エレノア・ルーズベルトとスペイン語の世界人権宣言 ウィキペキアより)

精神的自由や移動の自由、言論や報道の自由が保障されない「人権」というものはない気がするのですが、それを制限しておいて、民主主義が成り立つという主張は理解できません。同じ場所に光と闇が両立できると言い張っているようなものです。白を黒と言い張り通せば成立してしまうのが専制主義の恐ろしいところなのですが、そんな国が増えているそうです。

そんな社会では「個人」がどう感じているか、何を望んでいるかさえ、表現されることができず、自由な精神の発露が封じ込まれてしまいます。希望が持てません。そこでは社会の「公正」というものを期待できなくなってしまうからです。未来は個人の多様性(ダイバシティー)や共生社会に向かっているという話は、虚しいスローガンにしてしまうのでしょうか。そうだとしたら、子どもたちにとっての未来を、大人の現在が奪ってしまうことになってしまいます。

赤ちゃんに自由があるでしょうか。大人と同じように自由なのでしょうか。自由とはなんでしょうか。いろんな定義がありますが、私は「自分が思い通りの自分でいられること」だと説明します。たぶん「自己意識」が発達して初めて、自由という意味がわかるのでしょう。保育では自立を目指すわけですが、それは自分で自由に生活できる基盤を育てているつもりです。やってもらったり、指示されたりしなければできないという状態は、不自由だからです。

そこで常に、自由の話をすると、義務の話が出てきます。義務がどこから発生するかというと、お互い自由を認め合うことに合意するところからです。個人の自由が先にあって、相互にそれを尊重しましょうというところから、社会の規範が生まれます。また同時に、そこから「善さ」の探求も生まれますが、その話はおいておいて、お互いの自由が先にあって、近代の憲法も「個人の尊厳」を基本理念に置くようになっています。

ということは、現実社会の中での自由というのは、「自律」と非常に近いものになります。自分の意志で自分の考えや行動を決定し、自分の生き方をコントロールする力だというわけです。どうでしょうか。

さらに、昔からこの話になると、運命論の話が出てきます。人は自分の意志で何かを決めているようにのように思っているかもしれないけれど、本当は生物としての欲求や社会的な欲求につき動かされているだけで、そんなに自由ではないんじゃないか、さらには、この話の先には、「なぜ私たちがここにいるのか」、「なんのために生きているのか」を考えると、わたしたちの存在を超えた、何か大いなる世界の必然に織り込まれているだけじゃないか、という人生の決定論も控えています。

人の尊厳は、精神的な豊かさを前提にしないと、それが損なわれたときに、何が損なわれてしまったのかが、わからなくなってしまいます。例えば、誰かが事故で亡くなったとします。その「損害」を日本では、逸失利益、つまり生きていたとしたら、どれだけ収入があっただろうとという予想額を損害賠償額にしてしまいます。人の価値を経済の物差しだけで計算しようとします。全くおかしな話です。これこそ憲法違反なのですが、そんな議論もあまりありません。

私たちは、保育を考えるときに、個人の価値を社会への適応度や経済的成功度を目指して考える習慣から自由になりたいものです。保育をサービスと名づけて商品にようにして、その満足度を高めようとする物差しだけは、保育の質が見えてきません。全ての子どもが自分らしく自分を生きること。それを尊重しあうことができる社会をつくらないといけませんね。自由に思い描いた希望や夢は、格差を残したままの優越的なドリームではなく、誰もが叶えるものであってほしいと願います。それが私の自由な意見表明です。

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