ジェンダー平等で何年も世界一を続けているアイスランドの女性の首相が、先ほどNHKの「クローズアップ現代」のインタビューでこんなことを言っていました。以下は私の要約です。
「正しいことをしていくことが大事です。その結果が経済成長になるならそれは結構。経済成長のために何かやるべきではない。私がやったのは、男女の間で給料に差があるのはおかしいと法律にしたこと。職を失った人たちのために、大学で教育を受けるチャンスを広げたことです。その結果、若い人たちから生まれたアイデアや技術革新で、新しいビジネスも生まれました」。
そう、この感覚が大事なんだろうと、素直に思います。ものを大事に長く使えば、消費が減ります。そうすれば経済成長の数字は減ります。市場メカニズムに乗らないものや労働はたくさんあります。子育てもそうです。家事もそう。教育も本来そうでした。しかし、今はなんでも「外注」できるので、つまりなんでもお金を払えば手に入るような錯覚に陥っているだけです。
この感覚に慣れてしまうと、大切な自己表現や話し合いや民主主義の営みも、雑誌や新聞やSNSなどの市場メカニズムに組み込まれた媒体でなければ、その意味内容を伝え合うことにならないと、思い込んでしまう社会がきてしまうかもしれません。なんて恐ろしいことでしょう。井戸端会議や、集会を開いたり、政府に文句を言ったり、政治家に会いに行ったり、行政にやってほしことを署名活動したり、そうした自然発生的に直接意見を述べたり、広げたりすることも、市場を挟まないとできなくなるとしたら、それは民主主義の危機に通じます。
インターネットやSNSを否定するつもりはありません。このホームページも、その恩恵を被っています。でも、なんでも「いくらになるか」で価値判断することに慣れてしまうと、本来はそれで「食べていけるはずのない自己表現」でさえも、「フォロア数」やら「いいね数」やらの、市場に絡め取られていることに気づかなくなるかもしれません。また「売れる」「作品」にするのが無理だと考えて、自己表現すら、自分からやらなくなってしまいます。
私たちは詩人、芸術家、アーティストなど、自分のことを自分で名づけることが自由にできるのですが、それが職業として「食べていけること」と同一視したり、前提条件にしてしまいます。また、そうでないと本物と思わない市場社会になってしまいました。それは一面の真実でしかありません。
何かになりたい、という思いは、「それで食べていけるか」が、まず試金石になっていることの不思議さを、もう一度、問い直してみましょう。売れる作品を編み出さないと芸術家、音楽家、作家とは言えない。もし、そう考えるなら、市場経済が成立していなかった昔、洞窟壁画を描いた人や、法隆寺を建てた人、仏像を彫った無名の人たちは、どうなるのでしょうか。わたしたちよりも、ずっとすごい技術とセンスを持っていたのです。でも、別に高値で売ったり買ったりしていたのではありません。
スポーツ選手のプロとアマの違いに、スポーツの本質的な違いはありません。その人にとって正しいことや好きなことをした結果、それが結果的に市場で価値が出た、ということです。本人がやって楽しいスポーツから、見てもらってなんぼのスポーツが幅をきかせすぎると、子どもの夢の持ち方が歪んでしまいます。稼ぐことができるスポーツが、かっこいい、になっていくでしょう。人気のあるもの、多くの人がいいと思うものにならないと、成功とは言わない、という誤ったキャリア(進路)観を育ててしまいます。
日本はアメリカ、中国に次いで世界第三位のGDP大国です。だから、なんなのでしょう。経済成長をしているからと言って、それが個人や社会の何かの豊かさを表しているとは限らないのは、当たり前だったはずです。この認識をまず、しっかりと大人がもつべきです。そうでなければ、子どもの持ついろんな良さを、今の市場価値で値踏みしてしまう恐れがあるからです。