(写真:鳳輦。ほうれん。江戸時代1817年、119代光格天皇の譲位の際の行幸。桜町殿行幸図)
【天皇制と人間性】
天気が悪かったこともあり一日中家にいて、本や雑誌や映画を見たりして過ごしました。屈託のない祝賀ムードの中で、天皇制の歴史と象徴天皇の行く末について、ぼんやりと考えていました。「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」。私たちはきっと、この言葉の重みを、これから噛みしめて行かざるを得なくなるのかもしれません。
【大学入試改革】
テレビを見ていたら、私が理事を務めている団体の外部役員で教育評論家の尾木直樹さんが、「大学入試は、これまでで最も大きな改革になる」と話していました。その大改革の背景にあるのは、将来の人工知能社会に備えよう、という意味もあります。
保育園も今は幼児教育の場となりました。保育園も幼稚園もどちらで生活しても、同じように質の高い学びがなされなければなりません。また小学校以降の学習も大きく変わろうとしています。
よく「どのように変わるのか」と聞かれます。文部科学省が作ったキーワードは「主体的で対話的な深い学び」という言い方をしています。アクティブラーニングのことを、学習指導要領の中でそのように言い換えました。でも具体的にはどんな学力に変わるのでしょうか。
ある大手の大学受験会社のホームページには、こう書いてあります。
「知識から正解を素早く出すことよりも、解決すべき課題を発見する力がとても大切な時代になってきます」
ジャーナリストの仕事と言うのは、その力がなければ成り立ちません。例えば「政教分離と天皇の象徴性について、5月1日の出来事についてあなたの考えを述べなさい」といった大学入試問題に変わるわけです。
それは、これまでも言われてきたことですが、あらかじめ決まっている正解をただ覚えておくような力の必要性は、小さくなっていくでしょう。それはコンピューターに代わりにやってもらえば良いからです。
私の提案はこうでした。問題は学力の方ではなく評価方法の方だと。例え話として極端な言い方をすると、試験であっても、手元に教科書や参考書やインターネットにつながったコンピューターや何でも全て使ってよいと言う状態で実施すればいいのですと。本当に必要な「問い」を生む力が、仕事でも研究でも日常生活でも子育てでも政治でも有効なはずです。その事はみんな直感的にわかっているはずでしょう、と。
【ほんとうに、そうだろか?】
人工知能やコンピューターにもできないのは、不思議だなぁと思ったり、どうしてだろうと他人と協力して調べたり、まだ答えのない課題を見つけて探求するような力です。
そこで、私たち教育関係者は、児童や生徒に学び続ける強い意志や、協働により課題解決の道すじを切り拓く力を、育もうとしています。いまの子どもたちは、その時代の真っ只中で生きることになります。
でも、これまで10年後の社会を正しく予想できた事はあまりありませんでした。科学技術の進展は、そのスピードを増しています。海外で不法に行われているクローン実験や、軍事技術の最先端技術を垣間見ると、1つの国の中だけで倫理的な規制を強化するのは限界があるように思えて仕方がありません。
ネタバレしないように説明するのが難しいので、ほとんどの人が知っていることを前提とさせていただきますが、名作映画「2001年宇宙の旅」で、それこそ人工知能のHALが、自らの生存のために意志を持った自己判断を遂行します。ディープ・ラーニングができる人工知能は、自己保身にしても自己犠牲にしても、ある価値を巡って思考し、最善の判断をするようにプログラムする事は可能なように思います。
しかし今でもできないように思われているのが、AIが感情を持つことです。フィリップ・K・ディック原作の映画「ブレードランナー」にはレプリカント、つまり人工知能を持った美しいクローン人間であるアンドロイドが登場しますが、彼女は一見、人間と全く区別がつかず、しかも人間性をめぐって苦悩し涙します。AIとクローン技術が発達すれば、このような宗教的思索の夢さえ見るような人間的存在が、誕生しないとも限りません。
サイエンス・フィクションが、サイエンス・ノンフィクションに思えるような時代が、すぐそこまで来ています。