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園長の日記

当たり前かもしれないけど・・・

2022/02/15

今日は実習生との最後の振り返りの会があったのですが、二人の実習生が語る保育をめぐる出来事は、本人とって意味があるので、その意味を理解したくて、じっと耳を傾けて聞いてみました。そして、大事なことに気づきました。それは二人が印象に残ったこととして取り上げた事例は、私たちだときっともう、話題にしないようになってしまっていることだったからです。私たちは、当たり前のこととなっていることが、実習生には新鮮なことに見える。これは案外、私たちが心しておかなければならない意味があるような気がしたのです。当たり前になってしまっていいことと悪いことがあるかもしれないという話です。

私たちは生活のなかで、いろいろなことをやっています。そこで見聞きしたことを人に話すとしたら、その話の内容は相手によって違うし、そこにいる人たちによっても異なります。何を語るかは、その人間関係の模様が違えば、話題も変わって当然です。実習の反省会ですから、保育のことを語り合い、何某かの意味ある気づきを持ち寄りたいわけですが、いつもと同じメンバーで子どもの姿を語ると、大抵は同じ角度、切り口になりがちです。そこで実習生から見えた子どもの姿や事例への気づきが、私たちに新しい気づきをもたらすこともあります。あるいは、語られずに終わっていた先生の思いや意図が、初めて明らかにされるということもあります。

実習生が子どもに楽譜を用意したことについて「それが保育なんですよ」と語る先生の、その心は?という話が聞けたのも、園長としてはとても嬉しくなりました。また旧今川中校庭で遊んだ日、そこの三輪車で遊んで片付ける時に、年長の二人が率先して動いた姿が、実習生にはとても印象的だったそうです。実習生曰く「教育的にさせたというのではなくて、自分たちでやるように援助した」といった言い方をしていました。その事例について、担任の先生は、年長さんに人的なモデルになってもらうことが意図されていたことなど、幾つもの視点やねらいが隠されていることが説明されました。

そうなんです。保育というのは、ある「ねらい」があって、そのためにこうやったら、こうなった、みたいに単純な話ではなくて、輻輳した線や網目で織り込まれているようなものなので、指導検査などで「ねらいを書いて、それが達成できたかどうか振り返って、ちゃんとPDCAを回して」という趣旨のことをいう方が時々いるのですが、保育所保育指針はそんなことを言っていないのに、自治体レベルでは曲解されてしまっています。これでは日本の心情や情緒を大切にしてきた保育の伝統が薄っぺらいものになってしまいます。当たり前と思ってやっていると、正しいけど浅はかなことになってしまっていないか、そこへの危惧も大事なんだろうと思うのでした。

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