社会情動的スキルを育てようというとき、「能力」や「スキル」に比べて、あまり変化が望めない(と比較的おもわれがちな)「人格特性」「その人らしさ」の中で、どんなところに焦点を当てるべきなのでしょうか? まず教育基本法を確認してみましょう。その第1条(教育の目的)には、こう書かれています。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
この冒頭に出てくる「人格の完成をめざし」とある、この人格がパーソナリティのことです。戦後すぐの昭和22年に、この教育基本法を定めたとき、制定の趣旨には「個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること」(文部省訓令)とされています。
また、その解説には「真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない」とあります。
「ただ自然のままに伸ばすのではく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたらすこと」。この表現の中に、教育の意図性がよく表れています。教育では、よく「ただ〜するに任せるのではなく、教育的な意図やねらい、育てる目標や子ども像をもつ必要がある」というのですが、ここにもその「意図性」の強調が見られます。
実際のところ、教育基本法は、その「その人らしさ」であるはずの人格について、4つの普遍的な規準によるとされた項目を持ち込んでいるのです。それが次の文章です。
「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
①平和で民主的な国家の形成者
②平和で民主的な社会の形成者
③その形成者として必要な資質を備えること
④心身ともに健康であること
私は、この「民主的な社会の形成者」を育てることに大賛成ですが、この「形成者」になるために必要な資質とはどんなものなのでしょう。従来のままでいいはずはありません。
なぜなら、教育は「その人らしさ」を個人の尊厳として大事に守りながら、一方で望ましい社会、未来の社会を想定しなればなりません。教育には、この二つの視点が常に両輪として回っていく必要があります。ルソーが「エミール」と「社会契約論」の両方を書いたように、です。またルドルフ・シュタイナーが「自由の哲学」と「社会有機体三層構造」を著したように、そして千代田せいが保育園の保育目標が「自分らしく」と「思いやり」の両方を「意欲」でつないでいるように、です。個人と社会は切り離せないものです。
そうだからこそ、これからの社会を考えたときに、何が「普遍的で望しい規準」になるのでしょうか。私はこの規準を作り上げていくプロセスに子ども自身の参画、よりよいものを創造していくプロセスへのコミットメントが求められる時代になっている、と認識しています。それがどうあるべきか、と議論してきた検討した結果、 OECDは2030年までに達成してほしい教育プログラムの中に、子どもの主体性、正確には「エイジェンシー」という概念を打ち出してきたのです。エイジェンシーとは「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力」のことです。