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園長の日記

納涼会の準備の最中に「テロ」ニュース

2022/07/08

子育てをしていると、自分の子どもや他人の子どもなど、本来は愛している存在に対して、なぜか素直に受け止めがたい時があるものです。愛するがゆえに、生まれてしまう矛盾はなぜ起きるのでしょう。理由がわかれば対策も講じやすくなるはずです。私たち法人の保育理念は「共生と貢献」という言葉で表しているのですが、どんなに考え方や生き方が違っていても、このかけがえのない地球の上で、ともに助け合って暮らしていく方法を作り出さなければなりません。この対策や方法として、着目しなければならないのは、思想や信条の違いなどの動機に目をやることも大切ですが、まず考えなければならないのは、人間関係のあり方です。

今日は夕方、お迎えの時間に、保護者の方が納涼会で使う縁日の風車の部品づくりを、手伝ってくださいました。その最中に安倍元首相が撃たれて亡くなったという衝撃のニュースが飛び込んできました。過去の政治テロを見ても、秋葉原通り魔事件にしても、犯人は人間関係が極めて薄く、思い込みの激しいパーソナリティという特徴があって、何かの行動に移す前に自分の考えや思いを他者と交わし合い、自分を見つめ直すというプロセスが飛んでしまっています。この他者がどう感じているか、自分の考えは偏っているのではないか、そうした振り返りのスキルは、非認知的な力として、極めて重要なものだということを、改めて考えてしまいました。

前の保育園で地域の方々と交流を始めた時、園だよりに「地域をつくる人々」という連載をしたことがあります。その時に、省我会の理事を長い間務めていただいた大妻女子大学の教授で、多摩ニュータウン学会を立ち上げた社会学者の先生に、エッセイを書いていただきました。その内容は「ヤマアラシのジレンマ」を紹介されたものでした。ドイツの哲学者ショーペンハウエルが書いた寓話です。それを精神分析家のフロイトが引用して有名になったと言われています。

私はそれを読んで、初めてこのジレンマを知ったのですが、その内容は、こんなものです。「やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。だが、まもなくおたがいに棘の痛いのが感じられて、また分かれた。温まる必要から、また寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。」

ヤマアラシのように、私たちもニューマン・コンタクト(人間的接触)を求める存在です。親しみがますと、精神的に近づきたいという衝動を持ちます。子どももそうです。表現は拙いものですが、気持ちを通わせようとします。大人も同じで身を寄せ合って暮らそうとします。でも近づき過ぎると互いに傷つけ合ってしまうことが、よくあります。子どもはケンカになったりします。この人間関係の葛藤は、私たちが生きていく上で不可欠な体験です。誰も避けては通れません。

このジレンマの大切な意味は、後半にあります、やまあらしたちは、試行錯誤を経て、傷つけないほどよい距離感を見出して集まるのです。適切な妥協点を見出すのです。それは「お互いに」です。児童生徒や学生の友人との関係、恋人との関係、職場の人間関係、そして親子関係にしても、社会におけるいろいろな人間関係において、見出されるジレンマです。親しいからこそ、言わなくてもいい踏み込んだことを言ってしまったり、言われたりして相手を傷つけてしまったり、自分が傷ついてしまったり・・・。このような人間関係の一つの糸を、誰もが担っているんだという自覚が必要です。

私は中学の時にテニスをしていたのですが、ガットが切れるとその度に自分で張り直していました。その時に張り具合を均一にするように千枚通しで止めながら張ります。中島みゆきではありませんが、人間関係も縦と横の糸が張り巡らせることが人生であるように、またニュージーランドの保育理念が織物に例えられているように、一本だけが張り詰めていたり、緩すぎたりすると、テニスのラケットや人生や保育のチームワークは、バランスを崩してしまうものです。

子どもが歩んでいく道には、いろいろな人々との出会いが待っています。その一人ひとりとの出会い方、距離の取り方、くっついたり離れたりする作法を、大人になっても学び続けることが必要です。その作法も一人ずつ異なるので、おおらかにお互いを尊重し合う姿勢が、私たちの共生には不可欠なんだろうと思います。

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