対話を重ねていくと信頼が生まれるというのは、本当でしょうか? 信頼できる関係があったから対話ができたんじゃないでしょうか? お互いに歩み寄りたいという関係があったから対話が成立していき、信頼も生まれていったんじゃないでしょうか? 誰とでも対話を重ねていくことで関係が良くなるというのは楽観的すぎるし、事実、そうじゃないことが現実には多いんじゃないですか? 対話と信頼の関係は双方向の要因が絡み合っている気がします。
ーーーという反論が聞こえてきそうなのです。その通りです。信頼と対話は、対話と信頼ではなく、最初が信頼なんですね、きっと。そう思います。昨日15日の終戦記念日に、靖国神社の近くを歩いていたら、右翼と左翼の怒鳴り合いが大きな拡声器ごしに聞こえてきました。大の大人が罵り合っていました。この溝は深くて大きい。誰かが仲介して向かい合う関係になりそうな気配は、1ミリも感じることはできません。信じるものが違うと、これほどの敵意と罵倒が剥き出しにされてしまうものなのですね。
しかし、それでも対話から始めるしかないのです、そう思います。世の中は呼べば答えてくれる、応答してくれるという自己の生命(いのち)=生に対する拠り所は、本人が忘れてしまっているわけですが、乳児期の在り方にあります。それがのちの人格や資質に大きく影響しているからです。大人になった本人は社会やイデオロギーや価値観の問題だと思っているかもしれませんが、人を信頼したり共感したりできるかどうかが、対話を成り立たせるためにも不可欠なものだと思います。論理や行動で優越を競うようになる前に、お互いに人間であることへの共感をリスペクトし合うことができるための営みが必要です。
対話のありよう、そこで語られる言葉のありようについて、もっともっと想像力を豊かにしていくことが政治を語る時にも不可欠な気がしてなりません。対話が成立するためには、他者に尊厳性を感じることができる人間性、その精神性の開発が急務だと思います。8月15日に考える、未来の平和のためには、そこを起点に思考を巡らせたいものです。