何かに気づいたり、分かったりしたあと、「じゃあ、・・・」の部分が自ら動き出すかどうか。自ら動き出したものをどう大切にしてあげたらいいのか。そのことが保育のスタートと言っていいでしょう。その部分の「つながり具合」に気を配る保育へ、だんだん変わってきたのが、この数10年の保育の変化だった気がします。子どもの「心の動き」に着目することを第一に考えて、保育のねらいや内容を変化させていくこと。それがますます強まっていると感じます。それは、とてもいいことです。
とくに最近の保育界で目立つのは、子どもの主体性を軸にした保育の語りにシフトしてきている、ということでしょう。保育を語るとき、どうしても主語が保育者、だったのですが、このところ、子どもを主語にした語り口に変わってきたな、という印象を持ちます。たとえば主体性をエイジェンシー(社会形成の主体者)という概念で捉え直すことも、また映画「こどもかいぎ」でも注目されたように、保育者がファシリテーター(司会者のように議論を促進する役割)としての専門性に移ってきているように、保育者目線の理論から子ども目線の保育理論が再構築されてきているのです。
その最も大きな変化は、「保育のプロセス」を「学びのプロセス」に置き換えようという動きです。保育のプロセスというのは、保育をするのが保育者ですから、主語が保育者でした。保育者は子どもを理解する、保育者は子どもがどう変化するか予想する、保育者はその予想を踏まえて環境を再構成する、保育者はその結果を省察する・・・PDCAサイクルを回すのは大人側、保育者側の語りです。
ところが、子どもの参画を促し、子どもの意思決定を尊重し、大人と同じように生活を作り上げる主体者であると子どもとの関係を位置づけ直していくなら、保育の語りは、ある意味で180度変わってくるかもしれません。子どもが何に興味を持ち、何に心動かされているのか、語ってもらい、教えてもらい、赤ちゃんなら私たちが想像し、そこから何をすることがサポートになるのか(よく聞いてあげることや、受け止めてあげること)を、よくよく考えなければなりません。その上で、子ども一人ひとりの歩みを支えていく、したがっていること望んでいることに「つないでいく」ことの方法を一緒に考えていく。そんな保育の営みに変化させていく必要があるのです。
そこで、子どもの興味や関心を捉えて書き記し、そこから「じゃあ、こんなことにつながっていくんじゃない?」ということを予想して、記録を取っていくような「保育ウェヴ」という手法が、近年、急速に広がってきたのです。この手法の大きな特徴は、保育者が子ども理解に基づいて、予想される子どもの姿や環境構成の案を「文章で書き記す」というフォーマットではなく、その趣旨は同じなのですが、蜘蛛の巣状にたくさんの枝分かれを書き込めるようなフォーマットに変わります。子ども主体の「学びの展開」のプロセスは、「個別最適性」を追求することになるので、幼児でも個別指導計画が期待されていく時に、一人ずつに従来のような書式の書類を用意することは無理なのです。
子どもの持っている可能性を、私たちがどのように気づき、耳を傾けていく保育、子どもが何を従っているのかの「子ども理解」が、子どもの学びのプロセスを阻害してしまわないようにする保育への転換、と言ってもいいでしょう。子どもがどうしてそんなことをするのかわからない、何をしようとしているのか見えないという問題は「大人側」の課題であって、大人側がわからない、見えないから、と言って「子どもの学び」のプロセスを止めてはならないのです。
一昔前は(今でもそうかもしれませんが)大人が子どもに良かれと思ってさせる活動の羅列が保育の内容だった時代があります。厳密にいうと1965年(昭和40年)に初めてできた「保育所保育指針」から、1990年(平成2年)までの、なんと25年間もの間、大人が子どもにさせる活動主義保育の時代があったのです。第1回の大改定以降、子ども主体の保育に変わったはずなのですが、果たしてどうでしょうか。そこからまた既に30年以上経っているというのに。