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園長の日記

正しい道があるという感覚に頼りながら

2022/09/24

私は何につけても基本的に、現代の近視眼的な対処の仕方について、根本的な懐疑を持っています。本質的なことを棚上げして、しょうがないから、現実的な対応を繰り返して生きていくことが、現代の病理的な様相を作り出しているように思えて仕方がありません。どうしてそうなってしまうんだろうと考えると、変えようと思うことを、早々と断念することが賢明だと思い込まされているからかもしれませ。できない可能性が高いので、挑戦することすらしない、ということに近いのでしょうか。確かに人生は不可解、とわかっていても、その不条理を受け入れてしまった方が、なんとかなる人生だからなのでしょうか。なんとかなっていると思っているうちに、なんともならなくなるかもしれないことを、切実なものとして予想する力が、私たちに乏しいからでしょうか。

何の話かというと、人生における「根拠なき直感の優位性」という話です。科学はエビデンスを求めてきます。物事の根拠です。確かな理由です。誰もが納得する答えや証明です。でもそれが提示できないものは多くて、保育の質もその一つかもしれません。なかなかエビデンスを示せないことが多い。でも実践している当事者には、経験的にも直感的にも、こっちがいいだろうという判断が働いているものです。その判断に至るプロセスにある「落とし穴」には気をつけながらも、それでいい、と思えるものが確かにあるものです。

仕組みがよくわかっていないものの最たるものは、人間です。肉体も精神も霊魂も、宇宙の中でどうやって誕生したのかも、どこへ向かっているのかも、そもそも自分の生体の仕組みさえ、よくわかっていない、だから、健康であることや発達すること、感染症から守ること、そのほかコロナのことやワクチンのこと、自然食のことや地球環境のことまで、人間が考えてデザインして作り出している生産物のあれもこれも、今後どうなっていくのか不透明です。

では、確かな地点を確保することができないのか、というとそうでもありません。確かなものはあります。それはこうのように考えていること、それ自体は疑いえない自明性を持つと思うからです。こうやって時の刻まれていく流れの中にあって思考していること自体を、全くの幻想と退けることはできそうもないからです。この確かにあるという存在の手応えさえも、幻想でしかないとしてしまったら、きっと私たちのたどり着いた意味さえも、不可視の中に胡散霧消してしまうからです。ここから、一歩ずつ積み上げていくことが、私たちの直感が正しいと感じる生きる道だと思います。

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